命名に備えよ

 むかし高田裕三がそういうことを書いていたのだが、「変な名前も百回も使えば変でなくなる」というのは真理だと思う。たとえば、漫画のキャラクターや小説の主人公に作者が名前をつける。これが、ときに妙な名前がつくことがある。作者も変だと思うし、読んだ人もこれはと思うへんな名前である。ところが、長い年月、それで話を書いているうちに、どうしたことか、いつのまにか、それほど変ではなくなっている。あなたが日頃愛読している話を思い出して欲しいが、確かにそういうことはあるのではないか。

 このように、新しく考えた名前が広く一般に受け入れられるかどうかは、結局のところ関係者の地道な努力によるところが大きいと思う。「E電」なり「おにぎり(マッキントッシュの日本語版システムの名前としての)」なり、定着しなかった名前を思い出すと、あれはしかたなかったな、と思ってしまうのだが、考えてみれば、変に感じるのは定着しなかったからそう思うのであり、もしも定着していたら変でもなんでもなくなっているはずである。

 つまり命名には、使い続けることで自らを肯定する、自己実現的なところがあるのだ。ある名前がみんなに使われる光の道を歩むか、それとも忘却の闇へと転落するかには、その名前が持っている本来の輝きよりも、ある一定の「しきい値」があるのだ。そのしきい値を越えるまで、誰かが辛抱強く使い続けさえすれば、なに、よほどヘンテコな名前だってみんなが照れずに使うようになる。見れば「JR」だって「漢字Talk7」だって恥ずかしげな名前ではないか。駄目だった名前に欠けていたのは、せっかくつけたのだからちゃんと定着させよう、と頑張るその努力、それだけなのである。

 しかし、と以上の論証を無駄にするようだが、しかしその上で、なおも名前の良し悪しというものは、確かにある。しきい値はどんな名前についても一定というわけではなくて、関係者の血のにじむような(でも地道な)努力が必要になる場合と、そうでない場合があるのだ。そのものの実体をよく表し、外国語や古語による深い含意が込められていて、他のことばと紛らわしくなく、しかも格好いいのでみんなが口に出して言うのを快感に感じる、そんな名前だって、たまにはある。つけた名前がそういうものだったら、ほとんど自動的に定着することだろう。

 よく思うのだが、こういうよい名前は「考え出す」というよりも「見つけ出す」、「発明」よりも「発見」に近いものである感じがする。長篇小説は作り上げられなければならないが、短篇になるとそのアイデアを発見する、という要素が強くなり、俳句のようなものになると、素人が思わぬ名句を作り出したりする余地が多くなる。名前となると、もう最初からそこにあった、という感じに近い。宇宙のはじめから、というと大げさに過ぎるが、二一世紀の日本、と限定した場合に、その文化的な背景の中に最初から存在していたものを、定命の人間にとっては、ただ見つけることができるだけなのではないか。

 それだけに、よくある「このキャラクターに名前をつけてください」という公募には、それなりに深い意味があると考えられる。コピーライターのような「名付けのプロ」というような人がいたとして、たくさんある名前の候補の中から、定着しそうな、よい名前を選ぶことはできるだろう。しかし、本当に優れた名前が、ただ見つけだすことしかできないとしたら、それは大多数の人による、ブレインストーミングによるのが一番である。つまり、公募するのである。そうしておいて、送られてきた多数の名前の中から、応募総数が最大のものを選ぶ、のではなく、優れたセンスを持つ誰か一人に、すべての候補の中から独断で選んでもらう。それがよい名前をつける早道なのではないか。いや、E電だっておにぎりだってそういえばそういうふうにしてついた名前だったと思うが。

 とはいえ、企業や団体ならともかく、「自分の子供の名前」などというものを、まさか募集するわけにはいかない。候補の名前をいくつも出して、その中から直感で選ぶ、というあたりがせいぜいだろう。私は、一人めの子供が生まれるまえに「男の子だったらこの名前」というあたりまでは候補をしぼっていたのだが、生まれたら女の子だったので、かなり悩んだ。しかも、結局この候補の名前は次に男の子が生まれたときに使ったので、次にもう一人生まれたらもう何もアイデアがない。たいへんなことである。

 人生で出会うあらゆる命名に、我々は日頃から備えておくべきである。よい名前は見つけ出すしかないのだから、自分に子供ができたらどうするか、犬猫を拾ったらどうするか、メールアドレスやホームページやパソコンのハードディスクにどういう名前をつけるか、前もって考えておくとよい。新種の昆虫にどう命名するか、彗星や小惑星、新しい病原体や素粒子を発見してしまったらどう呼ぶのか、常に備えを欠かしてはいけない。東京湾から新たな怪獣が出現したららどうしよう、ひいきの野球チームの今年の打線の名前は何がいいか、と考える習慣をつけよう。よい名前を見つける作業には、膨大な人数×時間が必要なのだから、せめて時間をかけるべきではないか。へんな名前で一生後悔するより、そのほうがいい。

 いや、だから、どんな名前も百回唱えたら変でなくなるのだから、一生後悔はしないと思うのだが、まあその、せっかくの名前で誰にも呼んでもらえなかったら寂しい思いをする。だから、よい名前のストックをできるだけ用意しておいて、命名に備えよう。あなたの近所の用水路に、いつアゴヒゲアザラシが大挙して遡上してきてもいいように。


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