「追認バイアス」とかなんとか、そういう名前で呼ばれていたのではないかと思うが、大多数の人間の自然な傾向として、情報の取捨選択において、自分がもともと信じていたことをより強化するような、そういう方向の偏りがあるそうである。なにか、信じたいこと、漠然と信じていることがあると、廻りにある様々な情報を知らず知らずのうちに「ふるい」にかけ、信念を裏付けるもの、耳に快いものだけを選んで聞いてしまう。たとえば喫煙者の場合、タバコに関して「健康被害はない(少ない)」というニュースは積極的に調べ、また信じるのだが、「こういう健康被害がある」という情報からは目を背け、あるいは割り引いて考える。煙を嫌っている人はこれが反対になる。「あばたもえくぼ」効果であると言ってしまってもいいかもしれない。
人間とはそういう弱いものである、ということだろうが、言うまでもなくこれは危険なことなので、なるべくなら、どうにか踏んばって、この傾向から自由な存在でありたいものだ。心は常にオープンに、自分が信じていることは、信じているがゆえに、信じているものであるほど、ときどきはあえて疑ってみる。自分で「これでオッケー平等だ」と思うよりもう少し、耳に痛いニュースをあえて読むようにしたほうがよい。取る新聞、見る番組やサイト、あるいは人生のパートナーでさえも、自分と意見が合わないくらいがちょうどよいのではないか。
…と、常日頃、私はそう思っているのだが、いや、思っているだけでなくこれが完璧に実行できていたら、私はもう一段大きな人間になれているわけだが、まあその、上のようなことを目指していることは確かであって、これ自体、悪いことではない。これぞ科学的態度、というべきかもしれない。だいたい「追認バイアス」などというさもしい傾向が自分にもあるなんて、なんとも悲しいことで、なんとしてもそこから逃れたい。
ところが、最近指摘されて気が付いたのだが、例外がある。そういう努力を(少なくとも努力を)しているにもかかわらず、私にとってどっぷりバイアスな感じの分野があったのである。プロ野球だ。
言われてみると確かに、私は、プロ野球の、自分が応援しているチームが負けると、その晩から次の日の試合が終わるまで、あらゆるテレビ新聞インターネットの情報源から遠ざかる傾向がある。新聞を読んでいても、そのページだけ、ささっとぞんざいに一瞥するにとどめる。テレビのニュースは「スポーツのコーナーです」と言われた瞬間にチャンネルを変える(変えたくなる)。うっかり負けシーンを見てしまうと腹が立って生産的でないからだが、言われてみると確かにこれは「追認バイアス」ではないのか。それでいいと思っているのか私は。
よく考えてみた。まあその、いいーんじゃなーいだろうか、というのが結論である。言い訳をするようだが、結局、最後は、正味の話、プロ野球というものは、これは興行なのであって、本質的に客を楽しませるためのものである。もちろん、監督やプレイヤー、その他関係者はすべて自分の人生を賭けて必死に取り組んでいるのだろうし、またそうあるべきだが、ええい言ってしまえ、ファンまでそうである必要は、ない。チームの浮沈に一喜一憂し、それが人生の大事でもあるかのようにふるまってこそファンの楽しみがある、というのはその通りだが、その一方で、突き詰めればこれは、そうであるほうが面白いからという理由の一種の「よそおい」であり、ロールプレイングなのである。冷静になって考えれば、普通のファンにとって、チームの勝敗が生活になにごとかの影響を及ぼすわけではない。
重ねて書くが、ファンとして人生とシーズンの優勝の行方を同一視することが間違っている、と言いたいわけではない。ただ、根本的にこれはより楽しむための方便であり、チームがどん底のときまで一緒にもだえ苦しまなければいけない、という種類のものではない。いや苦しんだっていいのだが、それはそうしてグチをこぼすことが本当は楽しいのであったり、あるいは勝った時により一層楽しむためであり、負けたときの悲しみそのものが目的ではないのである。本来、そういう辛く悲しい感情は、本当の人生のほうで味わえばよい。興行なのだから、人生そのものでは許されない甘えを持ち込んだって、いいのではと思う。むしろ、これを幸い、どんどんバイアスしようではないか。ひいきチームのプレイヤーは英雄、勇者、サムライである。敵はウゾウムゾウや金に目がくらんだ悪党、小悪党どもだ。勝った時には大騒ぎ、負けた時には(半分)目を閉じよう。こちとら辛い目にあうために、ファンをやっているわけじゃないんだ。むがあ。
以上を読むと「大西は今本当に辛いんだな」と思ってもらえるかもしれず、そっとしておいてもらえるとありがたいのだが(※)、実は、上のようなことを書きたいと思った理由は別にある。最近、あるSFを読んで、もしかして時に科学知識は邪魔になることがあるのではないか、と思ったのである。
SFと科学知識、という組み合わせは、歴史小説と史実の知識、軍事小説と軍事知識、推理小説と医学/法律の知識等々、そのほか何でもいいのだが、要するに「知りすぎていると思い付かないアイデアがある」ということである。
たとえば、SFを書こうとして、何にも知らないのでいいかげんに新元素をでっち上げたとする。新元素ナンデモニウムによる装甲は砲弾の運動量を吸収し云々、と無体な設定を作る。小惑星の落下による被害は厳密に計算すればできなくはないのだろうが、適当にごまかして素通りする。相対論はなんとなく知っているが、ワープ航法があるので隣の星系まで一泊二日だ。そんなことで、ええのか。
自由な発想と確固たる知識は共存しうるものだ、とあなたは言われるかもしれない。むしろ、無知からくる発想は役に立たない場合が多い、と。私もそう思う。言われているほどに「素人の発想」というのは素敵なものではなく、科学も科学技術も結局はその道を一心に追求するプロの手で進められてゆくものである。が、科学の本流はそれでよいとして、ここでの話は「科学小説」に関してのものなのである。
SFにおいて、科学的に正確であることは特段の価値をもたない。読んでいる人が「いくらなんでもそりゃおかしいでしょう」と思ってしまって、それで読む気をなくすようなものだと問題があるが、SFにおいて、そもそも何らかの嘘が導入されているのは普通であり、自由な素人の発想をもとに書いてしまっても構わないものなのである。評価基準は読んでおもしろいかどうかであり、正しいかどうかではない。プロ野球がファンにとって本当の人生でないのと同様、「正しくなさ」が「おもしろさ」を割り引いて、なおプラスが残ればそれでいいのだ。
そしてそれだけに、自由な発想というのがうらやましくてならないのである。私だって科学のすべての分野に明るいわけではないし、ここにもずいぶん間違った(それも、とんでもなくまちがった)文章をずいぶん書いているのだが、その私の目から見てもどこか勘違いした体系の上に物語が書かれている場合がある。私だったら、その設定をもとに書くなどということは恐ろしくてできないが、実は、恐ろしかろうがなんだろうが、書いてしまえば、そして面白ければ、それでいいのである。読む側に回ってみると、なまじ知識があるだけに「間違っている」と感じてしまい、そのことが物語を楽しむ邪魔になることさえあるかもしれない。これは純然たる損失ではないか。
少し違うような気もするが、よい例のような気がするので書いておこう。「世界の中心で、愛をさけぶ」という小説のタイトルについて、居心地の悪い思いをしているひとというのはどれくらいいるのだろう。私はもとのタイトルになじんでいるので、これを聞いたり耳にするたびに、なにかすわりの悪さ、お尻がむずむずする感じ、大切ななにかを忘れているような感じがするのだが、このようにベストセラーになったり映画化されてしまうともうこっちが本家というふうに人は感じるはずである。
よしあしではないが、ある分野において、無知がひとつの力となるのは本当だと思う。