「アイタペアペア」とは、なんでもタヒチの言葉で「気にしないよ」というような意味だそうである。タヒチだからどうとか、「そんなこと言うたかて気にしないでは世の中渡って行かれんやろう」とか、そんなやましい気持ちは決してないのだが、とにもかくにも、本来の意味とは関係なく、これを「しまった」「困った」「どうしよう(いやどうしようもない)」という意味に使うととても楽しいことをこのたび発見した。
辛いとき、弱った時に、思いきって口に出して「アイタペアペア」と言ってみる。やることなすことうまく行かず、がっくりと落ち込んでしまった時にも、三回くらい連続で唱えれば、悲しみも吹き飛んでしまう、かもしれない。例を挙げてみよう。
「ぐはっ、ノーアウト満塁から、サードゴロダブルプレー…」
「アイタペアペア〜」
「げっ、サヨナラスリーランホームラン打たれたーっ」
「アイタペアペア、アイタペアペアァ〜、アイタァペアァペェアァァァァ〜」
我にもなく用例が偏っているが、ごめんなさい。すさんでおります。
以上はつまり愚痴であって、いきなり別の話をするのである。突然であるが、我々はだまされている。何にだまされているといって、普段我々が頼りとし、時には生命を預けている科学技術にだまされている。基本的に科学というのは公明正大なものかもしれないが、これを応用した科学技術はときにそうではないのである。ダマシのテクノロジー、略してダマテクは我々の日常生活にひたひたと忍び寄っている。
たとえばカップ焼そばである。これが「ダマテク」であることを看破したのは二十年前の私の父だが、ある日父は私が食べていた「UFO」なるカップ焼そばをしげしげと見て、こういうことを言った。
「これ、焼いてへん。焼いてへんねんから、焼きそばとは、違うわの」
まだ子供だった私は、ああっ、ホンマや、と衝撃を受けた。たしかに、焼いてへん。ラーメンみたいなソバを、お湯でふやかして、ソースをかけとるだけや。いや、冷静になって考えてみれば、焼いてあろうがなかろうが口に入れておいしかったらそれでいいわけで、だまされることによって別段こっちは不幸になってはいないのだが、私が気が付いたのはそのときだ。科学技術にはどこか調子がよくてうさんくさい、結果オーライで勝てばよかろうな姿勢がある。
ここで言っておきたいのだが、私の言うところのダマテクには「キャッシュカードをスキミングしてトリミング」とか「フィッシングがスプーフィングでハーフスイング」というような話は入らない。「温室にソテツ植えて温水プールを配してフラダンスを踊ったらハワイ」というのとも、ちょっと違う。これらは「技術でだましている」というだけのことである。ダマテクは、いわば「技術がだます」のだ。
なにがなんだか書いていてもわからないが、焼そばの話は「うまい焼そばをつくる為にはそばを焼く必要はない」というのは一つの発明である。「簡単に焼そばを作る」という目的を達成するために、技術がちょっとしたダマシ(これは焼そばだ。焼いてないけど焼そばなのだ)を行って、結果として人を幸せにしているのだ。「そばは焼かねばならぬ」という現実をだましているとも言える。
こういうダマテク魂は、ほかに「フライ・バイ・ワイヤ(操縦桿はセンサに繋がっていて、舵自体はモーターが動かす)」とか「グラフィカルユーザーインターフェース(アイコンがファイルを表して、ダブルクリックするとファイルが開く)」等に見られるが、よりダマテク的で例とするのにふさわしいのは、銀行のキャッシュコーナーかもしれない。ATMとかCD機と言われるアレだが、これには「画面の上のボタンに触れて下さい」というようなメッセージが出るものがある。画面に触れると操作ができるタイプのインターフェースである。
技術的に、こういう「タッチパネル」を実現する方法はいくつかある。一つには、画面を柔らかい素材で作っておいて、実際に圧力を感知してスイッチとする方法だろう。ノートパソコンでよく使われているように、静電容量の変化を感じ取るものもあると思う。しかし、銀行でよく見かけるのは「画面ぎりぎりに光線が通っている」という方法である。これは、とてもダマテクだ。
技術的な詳細は私にはわからないのだが、聞いた話では、画面の上数ミリのところに、光源とセンサーの組み合わせによって作られた、光のネットワークがあるのだそうである。「ルパン三世」やら「キャッツアイ」のあたりにちょくちょく出てくる、美術館で名画の周りに張り巡らされた赤外線警報装置のイメージだと思う。これを指先で遮ると、ATMのシステムは、その位置が押された、と把握する。
ちょっと目には、これはうまい方法である。可動部分やすり減るところがないし、モニタ自体は普通のブラウン管でも何でもよいので、強く押されたりしても大丈夫なように、ある程度頑丈に作ることができる。「光を遮る」と「画面を押す」のは、実は微妙に違うのだが、センサーの配置次第では、この両者はほとんど等しくなる。実際、操作する指先は画面に触れなくても、画面にうんと近付けばそれで充分なのだが、そういうふうに操作するのは結構難しい。つまり「押す」と「遮る」がほとんど等しいことを示している。
しかし、ああしかし、ダマテクはしょせんダマテクなので限界はあるのである。このように「ダマテクレイヤー」が存在していると、うまく行っている間はいいのだが、操作に失敗した時に非常に困る。「画面を押して下さい」と言われて、うまく反応しなかったらどうするか。普通は「もっと強く押してみる」「指の位置がずれているかもしれないので周辺をぐりぐり押してみる」というあたりの行動を取ると思うが、光センサー式の場合、そんなことには意味はないのだ。画面のほかの部分に光を遮っているものがあったりすると(手のひらの一部が画面に近付いているとか)、それが感知の邪魔になって、いくらぐりぐり押しても何も起こらないことがある。理由がわからないだけに、腹が立つものだ。
ここでやっとタイトルに言及するが、牛丼の吉野家(今牛丼はメニューにないけれども)の入り口には、どういうわけかこの「ダマテク扉」が使われていることが多いようだ。この扉は、自動扉なのだが「開けるためにはここに触れて下さい」というようなことが書いてある。赤い四角のシールが貼ってあって、いかにもここを押せばよい、という感じである。
ところがダマテクなのだ。ATMと同じく、これも光線式なのである。扉のワクのところに一対のセンサーがあって、ボタン(に見せかけたただのシール)を押すと、その位置の指が光を遮るので、それで開くようになっている。もちろん、だからといってどうということはない。ダマテクの正体を知っていてなにか役に立つことがあるかというと、閉まりそうになったドアを開けるために、ボタンを追いかけて触れる必要はない、という程度のものだが、たくさんの人にぐりぐり押された結果、すっかり赤い四角がはげてしまった扉を見るたびに、なにか、これでいいのか、という気がしているのである。
このようなダマテクに取り囲まれて日々を送っている、我々がなすべきことはというと、いや別に何もする必要はないといえばないのだが、そうだとするとこの文章で言いたいことは「アイタペアペア」だけになってしまうので、ええと、技術の詳細を、少なくとも概要を知り、ダマシを見破って本質をつかむのは大事なことだ、ということになろうか。カップ焼きそばは焼いてないので「ふやかしソース麺」である。ATMのタッチパネルはタッチしなくても操作できる。そして、吉野家に入るために赤い四角を押す必要はないのである。入ってなにをするのか、牛丼にみせかけた何かダマテクなものを食べるだけなのだけれども。アイタペアペア〜。