段の欠けた梯子

 自動車なら自動車、テレビならテレビ。いやもう、パソコンだろうが戦車だろうがなんだっていいのだが、工業製品の改良のようすを見ていると、生物の進化に似ているなあ、と思うことがある。あるメーカーの製品として、毎年のように新製品が登場するわけだが、どこか、前の製品の特徴を受け継いで、ちょうど親と子のように似ていたりする。詳しい人なら「S4000はS3500Fの流れを汲むがS3700Eの系統はここで絶えた」というように、進化の系統樹のようなものが描けたりもするかもしれない。

 考えてみればこれは当たり前のことで、新製品を世に出すとして、ネジの一本から再設計されるわけではない。新しい特徴をニ、三盛り込んだほかは、前の設計をそのまま流用するのが自然である。新しいアイデア、客からの要望や、時には他のメーカーのヒット製品の機能を取り入れて、毎年の製品はすこしずつこなれたものになってゆくことだろうが、それは通常「すこしずつ」であって、根本からガラっと新設計、ということはあまりない。S4500もまた、S4000に似ていることだろう。

 しかし、もちろんS4500はS4000がお腹を痛めて生んだ子ではなくて、設計者が前の設計を参考にこちょこちょとでっち上げたものだから、本当の生物の進化とは、やっぱりちょっと違う。生物の場合、世代ごとに(変えるとしても)少しずつしか変えられない上に、それぞれの世代がちゃんと生物として機能する必要があるので、なかなか抜本的な設計変更というのはできないのである。

 これはテレビの調整のようなたとえ話で説明するとわかりやすい。今、なんとか番組が見えているテレビを調整するとしよう。どこかのつまみ(同調や「垂直同期」や「色合い」や、その他いろいろ)を、少し廻すと、映りがよくなったり、悪くなったりする。しかし、ガツンとたくさん廻すとどうなるかというと、まず間違いなく、何も映らなくなるはずである。生物の変異はこれと同じで、せっかく生き延びて子供を残すことができる生物を、ガツンと変えると、うまく行くことよりも、生き延びられなくなることのほうが多い。そういう理由でもって、生物の変化はどうしてもゆっくりにならざるを得ない(何をもって「ゆっくり」かという議論はあるわけだが)。

 今、あるチャンネルが映っているテレビを調整して、他のチャンネルが映るようにするには、人間の手が入れば簡単である。同調のつまみを動かして、ざー、という所を通り越して、しばらく経つと別の局が入ってくる。ところが、生物はこうはいかない。生き物の進化の場合「毎世代が生きて子供を残す」ということは、この例でゆくと「映像が映らない状態になってはいけない」ということである。生物テレビは、世代が経るに連れ、今の局をますます奇麗に受信できるようはなるだろうが、砂の嵐を飛び越えて、別のチャンネルを見ることは、むずかしい。つまり、生物と技術にはこういう違いがある。

 ただ、ここまで書いておいてなんだけれども、こういう事情はある程度工業製品においても共通するのかもしれない。生物は毎世代、なんとか生きて子供を残す必要があるわけだが、企業においても、毎世代なんとか売上げを上げて、次代の設計開発を行う研究費を稼がねばならないという事情はある。不景気の折り、赤字の製品を事業として存続させるのは難しいのである。また、小さな設計変更をしても不具合が起こる可能性は低いだろうが、大規模な設計変更はしばしば多数の初期不良を引き起こす、ということも確かに言えるだろう。

 生物テレビの進化には、ブラウン管だった親の子が突如液晶になる、などといった大きな変化はない。しかし、それを言えば電器メーカーにおいてもそうである。ブラウン管テレビの製造ラインがいきなりなくなるのではなくて、ブラウン管テレビとは別の生産ラインに液晶テレビが登場し、別個に発展してゆく。たとえ市場で液晶が主流になったとしても、ブラウン管のテレビがなくなるまではずいぶんかかる。こういうものだろう。

 そう考えてゆくと、科学技術の進歩においても、生物の進化の場合と同様「どうしようもないジャンプ」というのが、もしかしたらあるのではないかと思う。ブラウン管が液晶になるような、あるいはプロペラがジェットエンジンになるような大きな変化は、設計者が系の外にいる工業製品ならでは、ある程度自由にこういう進歩が可能になるわけだが、それでも、開発費が高くつきすぎるなどの理由で飛び越えられないギャップというものが、あるように思うのである。

 これはたとえば、開発できればそれが主流になるのはわかっているけれども、開発費が高くつきすぎる、ということである。「ムーアの法則」といって、半導体の集積度と価格は年々順調に進歩(細かく、安く)しているけれども、これは、たまたま、常に「次の世代の半導体を実用化するとそれで儲けられる」というサイクルが存在していたからである、ということができる。極端な仮定だが、これがもし、半導体というものが原理的に線幅60nm以下でないと働かないものだったとすれば、ここまでの十年なり二十年なりの開発費をポンと出せる企業はどこにもない。とても実用化はされなかったはずである。

 昔読んだSFに、孤独な惑星に発生した知的生命を扱ったものがあった。その生物の生まれた惑星は、恒星のまわりをぽつんと、他の惑星も衛星もなく、たった一つだけ公転している。この惑星では、科学技術は十分に発展しているのだが、宇宙開発は遅々として進まない。最初の飛行が「恒星間宇宙船」ということになってしまうので、とてもそのような技術は発展できないのである。

 しかし、考えてみよう。我々はどうなのか。そのSFの中では地球人の乗った宇宙船がその恒星系を訪れるわけだが、現実はどうかというと、むかし、何人かの人間が月に行ったが、それ以来、未だに他の惑星に足跡を記した人間はいない。火星探査船などを見ていると、みんな頑張っているのでありあまりこういうことは言いたくないのだが、「エアバッグで減速」のようなローコストな感じのものが主流であり、アポロ計画に匹敵するような驚くような壮挙はない、と思える。どうしてこうなってしまったのか、二一世紀に住む我々には七〇年代の人類が持っていたフロンティアスピリットはもうないのか、と思ってしまうが、要するにこれは「宇宙からのあがりが少ない」ということに尽きる、ような気がする。

 たとえば、人工衛星はさまざまに利用されていて、利益を生んでいるけれども、それ以上の開発をして、開発が継続的に利益を生む、そういう梯子段がないように思えるのである。衛星軌道に実験室を作ったり、月に基地を作ったとして、それが「より細かい半導体」のような利益を生むかというと、そんなことはない。火星が突然テラフォームされた形で現れたら、そこに住んでみようという人は少なくないと思うが、そこまでにかかる費用は、誰にとっても高すぎるのである。

 考えるだに恐ろしいことだが、もしかしたら、我々にとって、この恒星系は「惑星がぽつりと恒星の周りを回っている」に等しい、宇宙開発が困難な世界なのではないのだろうか。科学技術の梯子は一本だけではなくて、ぐるっと回り道をして気が付いたら恒星間飛行に役立つ技術が実用化されていた、というようなことがないではないと思うが、生物が車輪を持てないのと同じように、見果てぬ夢である可能性もある。

 だからといってどうということはないのだが、そうしている間に、たまたま近所に生物が住める惑星がゴマンと存在する世界に生まれた生命が、この宇宙を支配してしまうかもしれない。その生物は、近くに住める惑星があるので、どんどん宇宙に出ていって、そのことで大儲けして、そのお金でもっと優れた宇宙船を作るようになるのである。そうして、ある日、その生物が地球にやって来る。地球の周りをうろうろしている人間を見て、ああ、こんなまばらな惑星系では宇宙開発はやりにくいよね、あなたたちのせいではないけども、アンラッキーだったね、という目で見られるわけである。

 先日、民間初の軌道飛行宇宙船というものが試験飛行に成功していた。将来は宇宙観光ができるようになるのだそうだが、なんでも、そういう民間宇宙船の開発には懸賞金がかかっていて、それで急にそうしたものが競って開発されるようになったのだそうである。科学の進歩は、やっぱり生物の進化とは違う。こういうちょっとしたことで、なんてことはなく、ギャップは飛び越えられるような気もするのだが。


トップページへ
▽前を読む][研究内容一覧ヘ][△次を読む