昔のことを思い出していた。わたしはまだ大学生で、研究室に配属されたばかりで、はじめての学生実験を明日に控えていた。
「何か見落としはないか、わからないままにしているところはないか」
と、担当の教官がわたしに訊いた。わたしは、本当をいえばわからないところばかりだったが、そうこたえるのは非常に、なんというか、不穏当な気がしたので、とりあえず黙っていた。すると、教官は続けた。
「不安な点をリストにしておきなさい」
大きな実験施設を使って研究を行う、わたしのような種類の学生は、実験をすることそのものが、いつも、それなりに真剣勝負になる。思いつきで実験をはじめて、やってみましたがだめでした、というのは通らない。いや、通らないこともないのだろうが、それをやると、たくさんの人に迷惑がかかることになる。冒険は許されても、うかつな行動は許されない、と思う。
もしも私が文系の学部に進んでいたとしたら、こういうところ、どうだったのだろう。それはありえない仮定としても、理系でも理論を主にやっているところは全く違うはずだし、実験系でももっとコンパクトな実験設備を使う研究室では、失敗へのプレッシャーはここまで大きくないはずだ。
もちろん、どんな学生の研究でもそれぞれに、わたしとはまた別の部分で苦しいところはあるはずで、それどころか、わたしの立場よりももっと、シャレの効かない一発勝負の研究もあるはずである。いずれにしても、好きで選んだ道なのであって、サイコロをもう一度振りなおして人生を選びなおせるとしても、まあ、なんとなく、同じところにいるような気はする。
いやいや、もしかして違う道をたどっていたかもしれない。そうするべきだったかも、と、そう思うほどに、そのときのわたしは疲れていた。この一週間というもの、一人、こまごまとした実験の準備でかけずりまわっていて、それはもう本質的なことよりも「ガムテープの新しいのはどこだっけ」「このボールペン書けないぞ」レベルの細々としたことのみ多く、残された時間は過ぎ去ってゆき、眠くて、しばらく風呂にも入っていなくて、しかも明日になって実験がはじまれば、もっとひたすらに眠くて、なおさら風呂にも入れなくなることが、わかっていたからである。
泣きごとをいってもはじまらないので、ノートを広げて書きつけていった。先輩方の実験をまとめたものなど参照しながら、予想されるこの実験の、わたしの理解のウィークポイントを書いてゆく。そんなにえらそうなものでもない、実験制御用のパソコンのユーザー・インターフェースがいまいちよくわかりません、というようなことも、書く。五つほど書いたあと、最後に、ちょっと考えて、一行付け加えた。
「この他に、私がとてつもない大バカなので、まったく想像もつかない何か原理的で致命的なミスの可能性がある」
正直かつ素直に書いたし、場の雰囲気を実にうまくとらえていると思うのだが、ノートを読んだ教官には「ばか」と叱られた。
さらに、それよりも少し昔。怠惰なモラトリアムの日々、大学の二年生のころだ。わたしがよく遊んでいたファンタジーロールプレイングゲームの世界設定に、何柱か「神」を導入しないといけなくなった。
このゲームは、ルール上魔法があったり竜が空を飛んでいたり、まあそういった、架空の世界で遊ぶものだ。遊んでいたシナリオはわたしが適当に設定した自家製のものだったので、けっこう物質的でプラグマティックな世界設定になっていて、本来、神様の入る余地はあまりない。
つまり、神様がその辺を歩いていてちょいと手助けしてくれる、などというイベントは起きないのだが、その一方で、治癒の魔法を使う「聖職者」という職業があるくらいで、少なくとも「神様を信じている人」はいる。その人たちがどこから力をもらって魔法を使っているかというと、それはもう神様なので、何か、神様がいないとおかしい。
そういうわけで、地水火風がどうといったいいかげんなオカルト思想に基づいて、一つひとつ適当な設定をでっち上げていったのだが、最後に少し考えて、一柱「無の神様」というのを作った。ビュースフェラースという名前は、今となってはどうでもよい。かれがつかさどるのは「エントロピー増大」である。
ビュースフェラースは、長い杖を持った道化として描かれる。風変わりな仮面の向こうに顔を隠し、左手には飾りのない、黒くて軽い杖を持っている。宇宙のどこか、世界を見下ろす位置で気まぐれな踊りを続けるビュースフェラースは、たわむれに地上にむけて長い杖を振り下ろす。そして、この「ゼロの杖」に触れられたものは、何であれ、その動きをとめてしまう。英雄、年経た竜、強大な魔法も伝説の武器もその例外ではない。ほかのすべての神々の力をもってしても、ビュースフェラースを遠ざけることはできず、最後にはかれが勝利をおさめ、世界は無に帰する。
「ゼロの杖」だ、とわたしは思った。わたしの中の、なにか大切なものが、杖に触れられたのだろう。そうだ、そうだよ、なにもこんなに辛いことを続ける必要はない。もっと楽で面白いことをするために、私の人生はあるのではないか。壊そう。なくそう。なにもかも終わりにしよう。この、仲間うちで遊んでいた自家製の世界が、もろとも無に帰したように。
わたしは、ノートの「とてつもない大バカなので」を思い出し、世界設定ノートに描いた仮面と黒い杖を思い出し、それからもう一回、考えた。その、私の実験のとき、わたしはどうしたろうか。ああ、そうだ。
そうだった。わたしは、ノートをわきにどけて、机にそのまま突っ伏して、一時間ほど居眠りをしたのだった。居眠りから覚めたら、なんとなく、やる気が出ていて、わたしは実験準備の残りを、ぼちぼちと片付けることにした。不思議に、どうやら、間に合いそうなのだった。
その後の人生、何度もこの「杖」に触れられた瞬間はあったものだが、その時も、一眠りして状況が好転しなかったことはあまりない感じがする。そういうわけで、今夜もわたしは眠る。眠ってから、大切なことは考えよう、と思う。