ライフラインの相克

 曲がりなりにも持ち家があるくせに、先だって住宅展示場のようなところに出かけたのだが、そこにガス会社がブースを構え、「ガスとIH食べ比べ」という催し物をやっていて、面白かった。IHというのはInduction Heating、つまり高周波磁場によって金属中に励起される渦電流でもって鍋を熱しその熱で調理するという、嘘のようだが本当である原理に基づく電磁調理器で、西暦2004年の東京電力エリアにおいては、鈴木京香がテレビコマーシャルでやっているアレというと通りがよい。

 このIHを看板に、電力会社は家庭における台所の主役を奪わんと一大攻勢をかけている。IHの備える武器としては、まずもって安全性における利点である。なにしろ原理が渦電流なので、触っても熱くない。基本的に電化製品なので、細かいコントロールが付いている。トップテーブルが平らで、掃除が楽である。そういった旗印を掲げて台所へと押し寄せているわけである。

 しかし、デンキの側の攻撃としてはそういうことでよいとして、これに対して防御する側というのが当然ある。そうでガス。ガスである。そもそも、あなたがガス会社の社員だったとして、この事態に対して拱手傍観することがはたして株主利益に繋がるであろうか。そう、今こそ立て、限りなく透明に近い青の炎を描いた旗を掲げ、ガスの使徒どもよ立ち上がれなのである。鈴木京香に負けるなでんこちゃんに負けるな。

 話がどこかに行ったが、まずそういうわけで、とりあえずの危機感の現れとしてこのようなブースが出来ているのであった。説明するが「このようなブース」というのはつまり「ガスとIH食べ比べ」である。住宅展示場など見にくるような、すなわち「今度家建てるんスけど、台所はIHにしようかと思ってるんスだってホラ何か格好よさげ系?」的な人々を前に、実際目の前でIHとガスで調理して比較してガスで作ったほうがんまくて早いところを見せてやろうではないかというものである。

 知らなかった。高級なガスレンジというのは、何でもできる。といってもちろん歌ったり踊ったり肩を揉んだりはできないが、料理はわりあいできる。つまり、お惣菜の温めやトーストなど、現在電気で占められているニッチまでも奪い取ろうかという勢いなのであり、特にご飯を炊く機能というのがあって、これがよい。米をといで、鍋に入れ、コンロにかけてスイッチを入れると、十分くらいでご飯が炊けるそうである。これはよいのだ。

 何がそんなによいかというと、なにしろウチのは電気炊飯ジャーだ。今私が使っている電子ジャーは、百年前のおじいさんが生まれた朝に買ってきたのではないかという代物だが、炊くのにものすごく時間がかかって、それはもう炊いている間に車に乗りこんで水戸から高速道に乗って三郷ジャンクションで降り、そこのコンビニでご飯をチンして食べるほうが早いというくらいのもので、それに比べればガス炊飯は非常にうらやましいのである。

 もちろんご飯というものは飯盒でも普通のガスレンジでも炊けるということは知っているのだが、炊飯ジャーの何が偉いといって「スイッチぽんで忘れた頃にご飯が炊ける」というそのことであり、その点、はじめチョロチョロがどうとかいう火加減をガスレンジのほうでやってくれる、最新式は偉いのである。こういう格好いいガスレンジを買ってしまう日が、そのうち来るかもしれない。

 と、すっかりガスに洗脳され、おおいにガス派としての活動を続けて行く決意をしてブースを出たのだが(公平を期するための証言:私はこのブースでエビピラフと鳥肉とバタートーストと炊き込み御飯と餃子の皮にチーズを乗っけたものを無料でご馳走になった)、この「炊飯」という仕事について、多少、考えることがある。ご飯はかまどで炊くのがおいしいとされる。本当なのかということである。

 我々は普段「新しいものほど偉い」という一般的な傾向があると信じている。オリンピックの記録は全体として毎回優れたものに更新されてゆく。新しい携帯電話は古いものよりも機能が多い。新しい自動車は古いものより燃費がよく、排ガスがきれいで環境にやさしいのである。しかし「一般にそうである」ということと「絶対にそうである」ということは同じではない。中には「古い物の方がよい」というものがあってもおかしくないのである。そのはずだ。現代人が忘れてしまった古いものの中には、この軽薄な時代にはない良さが数多く隠されているのである。そうではないか。

 というような主張はもっともなのであるが、多少、この論法は商業的に乱用されすぎているのではないかと思って、要するに私はそう言いたいのである。繰り返して書くが、ご飯はかまどで炊くのが本当においしいのだろうか。

 いや、説得力はある。それは認める。最新式のどのようなご飯炊き装置で炊くよりも、実は古いかまどで普通に炊いたご飯がおいしい。そういうことは、ありそうかというと実にありそうである。本当にそう思う。だからこそ、炊飯ジャーのコマーシャルにおいて「かまどの炎の動きを再現」などというコピーが成り立つのだが、しかし、考えれば考えるほど、これは手放しに信じて良いことではない、本来証明を要する事柄である、と思えてならない。

 おそらくは、かまどにまつわる痛快さが、主張を証明不要に思わせるのだと思う。古いものが新しいものを倒すというのは、なにしろ痛快である。零戦がF15を撃墜する。下町の職人が削った部品が最新鋭のNCマシニングセンターに勝つ。雑草魂を掲げて山ごもりをしたボクサーが最新鋭のトレーニングを経てきたエリートに勝つ。老婆の知恵が科学に勝つ。そして、かまどが最新の炊飯ジャーに勝つのである。なにしろ素晴らしいことだ。しかし、そういうことはあまりないからこそ痛快なのであって、一般には真実ではない。

 落ち着いて考えてみよう。古い方法は「一つのやりかた」であり、しかも「昔の人に使えた方法」(集合A)のうちから一つ選んだやりかたである。もちろん、長い年月が経っているのだから、集合Aの隅々まで試してみて、つまり使えた方法すべてを精査して最良の方法になっている可能性は高い。お釜の厚さであるとか米の研ぎ方であるとか、漫然と火にかけるのではなく、初めちょろちょろで中がパッパで、それからなにかいろいろなことがあって、赤子が泣いてもふたを取ってはいけない方法で炊くとか、そういうノウハウがあみ出されてきたのである。これ以上どうやってもおいしく炊けないところまで来ているかもしれない。しかし、それでも、これが「今の人に使える方法」(集合B)の中で最良であるというのは、必ずしも正しくないのである。集合Bは集合Aを完全に包含し、しかも集合Bのほうがうんと大きいからである。ローマ人式に「尿につけて石の上にのべて足で踏む」とした洗濯物のことを考えてみよう。もっといい方法があるのではないかと思えるのではないか。

 まとめよう。ご飯を炊くということに関しては、かまどがおいしいのかもしれない。しかし、それ以外の方法が使える現在において、やはり「かまどが一番」というのはただの思考停止である。あらゆる方法、たとえばガスなどを試してみて、本当にそうなのかどうか、我々は常に確かめてゆくべきなのである。それこそが、我々を原始の地獄から救い出した、真の科学的手法というものではないか。

 たとえば、やっぱりガスが最高でIHがダメだと決めつけるのではなく、と、はっ。あっ、ああっ、いや、いやいやそんなことは。ピラフおいしゅうございました。炊き込みご飯おいしゅうございました。ガスは最高であります。IHなど不要でなのであります。いやホラ何かおふくろの味系?みたいな?


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