振り子の下

 たとえば。長い長い振り子のそばに立っている。細い鉄線で吊られた重い振り子の先には、なぜか鋭い刃が取り付けてあって、もし少しでも触れようものなら、ただでは済まない。この振り子を、そうっと持って、目の高さまで引っぱって持ち上げてくる。ある高さのところまで持ち上げておいて、手を離す。ぶん、と手を離された振り子は加速しつつ進んでゆき、何秒も経って、ようやく向こう側の最高点で重々しく停止する。やがて振り子はこちらに向け、うなり声をあげて戻ってくる。

 このときに、思わず飛び退いてしまうかどうかが、物理を学んだものと、それ以外の差とされる。あたりまえだが、エネルギーは保存し、振り子がもとの高さよりも高く振れることは絶対にない。摩擦による系からのエネルギー損失がゼロに近いとしても、振り子から手を離したその高さで待っている限り、実験者が振り子に危害を与えられることはない、はずだからだ。

 しかし、なんだここは上司が読んでいるわけではないので、思い切って言おう。余人(余物理学者諸氏)は知らず、私は、きっと、平静でいられない。なんだか思わず正直に飛び退く、そんな気がするのだ。

 ぶーん、と音を立てて振り子がこっちに向かって揺れてくるとき、私はきっといろいろなことを考えるだろう。計算上、原理上、人類がここまでよって立っていた科学の原則に照らして、絶対に大丈夫だと確信するかもしれない。しかし、どこかで考えてしまうのである。科学は間違ってないと思う。でも、ぼくが間違っていたらどうしよう。これまでさんざん間違ってきた私が、ここでは正しいという確信は、はたして自分の命を賭けるに足るものか。そんなことはない絶対にないどっか間違ってるよわあ逃げよう。

 私は、言ってみれば科学を信じている。しかし、その「信じている」は、おそらく、信者が宗教を信じるそれとは違うのだろう。科学という神は、なにか、こっちの間違いを許容しない意地悪なところがあって、つまり言い古された表現を借りれば間違う可能性があったらきっと間違っているのである。振り子に賭けるものが百円玉程度なら自信をもって「科学を信じる云々」と言って泰然自若としていられるだろうが、賭けられているものが「自分の命」である場合はもちろん「自分のパソコン」やら「さっき買ってきた酒瓶」程度のものでも、怖くなるのである。私は、宗教家にはなれないと思う。

 自称超能力者を見破るにあたって、よく、適任者は科学者ではなく手品師である、ということが言われる。私もそう思うけれども、本当にちゃんとした科学者は、少なくとも実験科学者は「自分がこの目で見たから確かだ」などとは決して考えないようにも思う。自分が間違っている(見落とした)可能性を忘れたりはしないのではないか。

 科学の実験をしていると、いろんなことが起きる。常識で考えて絶対に起きないようなことが起きるのだが、たいていの場合、それは自分がどこかでどえらい間違いをしでかしたからであり、それはもう、ほとんどすべての場合がそうであり、残りの、ほんのわずかなわずかな実験だけが、いままでの法則がひっくりかえる偉大な瞬間である。経験を積んだ実験科学者は、この両者のバランスを見誤ることはない。絶対起きないことが起きるたびに大騒ぎをするものではない、と、私は実験物理学者としてはほんの駆け出しのところでいわば挫折した人間だけれども、多くの先輩科学者を間近に見ていて、そういうものだと思っている。

 というわけで、トリックに鋭い目を注ぐ手品師のように、振り子の揺り戻しに対して、逃げずに、その場にとどまっていられるのは、物理学者ではなく、二十年も振り子を揺らすことを生業にしてきた「振り子揺らし師」ではないかと思う。いやそういう人はいないと思うが、そういう人であれば、まあ、経験上かなり安心して振り子を見ていられるのではないか。いや、それでも、くる日もくる日も、毎日何百回も振り子を揺らしてきて、今日だけなにかが間違っていて振り子に切り刻まれるということが、人生にないとはいえない。考えてみれば、多くの人はそうやって死ぬのである。その日までは、振り子がこっちに向かってきたら、逃げるのがよろしい。少なくとも、車を運転しているときなどは、そういう気持ちでゆきたい。


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