新聞に載っていたコラムで読んだ話である。とあるアルメニアの方に対して、どういうときに自分が自国民であると考えるか、という質問をしたら「アララト山を眺めるとき」との回答だったという。私はといえばアルメニアにもアララト山にもたいした知識があるわけではなく、「ノアの箱舟」を先に挙げられてしまうともう話が続かなくなるのだが、とにかく、アララト山は日本人にとっての富士山のような存在なのだろう。
富士山は、あまりにも記号化されているので、わが国の誇りは富士山、と口外するのは正直照れくさい感じがする。外国のひとに同じ質問をされても、なかなか富士山は出てこないだろうと思うのだが、ただ、素直な感想として、旅行していて景色に富士山を見つけると、あんなものは地面が盛り上がったものだ、と思っても、やはり美しく、心を打たれる。東名高速や東海道新幹線の車窓のような比較的近くから見た富士山だけでなく、埼玉や東京あたりからたまたま見えた富士山にも、ちょっと目を離せない魅力がある。よくもまあ、あんな山がこの列島にあってくれたものだと思う。
これは富士山によらず、高い山、山脈であればみんなそうだと思うのだが、巨大な山を見ることには、ちょっと原始的な、本能からくる感動があると思う。そういうふうなプログラムになっていることで、どういう進化上の利点があるのかわからないが、たとえば、山への感動は「高い所に立って下を見下ろす感動」と同種のものではないか、という仮説は立てられる。これは空撮写真で故郷の街並みを見たり、望遠鏡で月の姿を見るのと同種の「世界を眺める感動」で、つまり、山は斜面が盛り上がっているので「広い土地を一望する」と「広い山肌を一望する」の感覚が近いといいたいわけである。
高みから世界を見下ろす行動は、危険を避け、また獲物を得て、生き延びて子をなすための情報を得る手段となったはずである。「高い木に登りたがる」という明らかに危険で、遺伝子プールから取り除かれてしかるべき傾向が、私の息子に残っている理由もそれでわかる、ような気がする。要するに高いところは気持ちいい。本能に織り込まれた、普遍的なそうした感覚が、まわりまわって名山を国の誇りとするような心のありようを生むのではないか。などと、思いつきにしてはいい線行っていると思うがどうだろう。
そういえば「富士山を見ると百日長生きする」ということわざがある。「高い山を眺めそこにある情報をいち早くキャッチすることで生存競走上有利になる」などという牽強付会な意味はもちろんないが、あえて解釈すれば「富士山は美しくて心が洗われる」ということで、つまりは観光の宣伝、キャッチコピーのようなものかもしれない。
いや待て、そういえばこの言葉をどこで聞いたのか、これで正確なのか、本当にことわざなのか、読んだら百日寿命が縮まるのは恐怖新聞ではないか、ぶっちゃけた話私が勝手に作った言葉ではないのか、と、にわかに不安になってきたが、とりあえず、ええと、延びる寿命が「百日」というのは控えめで実にきれいである。みもふたもなく言えば長生き云々は嘘なので、嘘は嘘としてそれをなんとか貫き通すには百日がちょうどよい感じがする。「ドコソコ地方の名物ナニソレは人類の至宝、宇宙一うまい」よりも「ナニソレは、旬にはなかなかうまい」とか「ナニソレには、根強いファンがいる」とかのほうに、より信憑性を感じるのではないか。なにそれ。
なにそれはともかくとして、確かに、統計によれば日本人の寿命は年々延びている。長生きすることが、必ずしも幸せとは限らなくて、幸福な短い人生もあれば長い不幸な人生もある、という考え方もあるが、もちろん長い幸せな人生と短い幸せな人生では長い幸せな人生がおトクなのである。
そういう意味で、日本は世界一の長寿国であり、いつも思うことだがこれはもうすこし誇ってよい。医療態勢や、事故防止の取り組みや、老人福祉の実態について、ある国にはこういう良いところがある、日本はだからダメだ等という類の話題があったとして、それに対していちいち「そんなに外国がよいならどうして平均寿命で日本のほうが上なのか」と、当然考えてしかるべき重要な数値ではないか。もちろん日本があらゆる点において他国より優れているということにはならないが、「我々のやっていることは、総体としてはどうやら正しい」ということを、これほど強力に証明してくれるデータはない。
厚生労働省のサイトにあった統計(※)を引っ張ってきて、平均寿命の伸び方をグラフにしてみた。日本全体の平均寿命の年ごとの変遷を示すグラフである。
グラフの線の赤いのが女性、青いのが男性を意味している。女性という存在が我々男性に比べいかに頑健であるかわかろうというものだが、78歳対85歳という絶対値だけではなくて、「延び幅」を見ても、女性の延びが男性のそれを上回っていることがわかる(グラフの言葉でいうと、女性の線の傾きのほうが大きい)。この女性上位は、延び年数を寿命年数で割った「延び率」においても同じである。これは恐るべきことで、すぐれた医療などの要因が男女間のギャップを埋めるよりは広げる方向に向いていることを示している。なぜかはよくわからない。とりあえず、男性の一人としては嘆かわしい事態である。
さて、この平均寿命のグラフに一次関数を当てはめてみる。難しいことを言っているようだが、要するに、年ごとのでこぼこをならして直線を示すことになる。
微妙だが、平均寿命の延びとしては、いったんある値に収束するのかと思ったら、また延び率が増えて、というふうで、これといった傾向はない感じである。普通考えるところの、医学の発展による寿命の延びのイメージとしては「人間にはなにか絶対的な寿命があって、医療が改善されると寿命は延びるが、やがてある限界で頭打ちになる」というものが考えられて、もっともらしいモデルだと思う。しかし、このデータを見る限り、今のところ天井は見えないと言ってもいいのではないか。延び率の減少傾向があったとしても、グラフにはまだはっきりとは現れない程度のものである。
もちろん、だからといって、これをそのまま延長して、西暦一万年ごろには平均寿命が男性2330歳、女性2729歳に達する、などというのは数字の遊びに過ぎないけれども、このグラフの後、21世紀になってもある程度の延びは期待してもよいだろう。三年ほど前、私の子供が生まれたとき、この子は22世紀まで生きる可能性があるのだなあ、と気が付いて驚いたことがあるのだが、このまま2100年ごろまでこの延び率が続くとしたら、2002年に生まれた私の娘は2131年、2003年生まれの私の息子でも2114年まで平均して生きるということになる(※2)。22世紀もいいところである。
上の計算に使った延び率は、1965年から2000年までを平均したものである。この間、寿命は男性で10歳ぶん、女性で12歳ぶんほど延びたから、これを一年あたりに直すと、男性0.28歳、女性0.33歳、ということになる。註に挙げた「平均寿命」の定義からして、この延びが「1歳」だったとしてもこの一年誰も死ななかったということにはならないのだろうけれども(その場合はたぶん「平均寿命無限大」ということになる…と思う)、なんにしても延びがその30%に達しているというのは、かなり凄いことである。年利率30%、牛丼三杯食べたらもう一杯プレゼントというような話なのだ。医療の進歩は進んでいるので、大きな疫病の流行などがなければもう少しこの傾向は続くかもしれない。
ところで、この35年間の、一年あたりの寿命の改善は、男性103日、女性121日である。思い出すのは富士山のことだ。結局、あのキャッチコピーは嘘ではなかったのだろうか。とりあえず、ソファのひじかけの上によじ登った息子に注意しつつ、富士山に思いを馳せてみたい。