片目で笑え

 君は一本抜けている、という言い方はいまどきあまりしない。「一杯食わされた」とか「一泡ふかせてやる」と一緒に少しずつ古くさい表現になりつつあると思うのだが、あえて今投げかけたいのは「本当のところ、抜けているのは何か」という問いである。やっぱりネジだろうか。言われてみるとネジを伴った表現をよく見かけるような気もする。あるときネジが一本、口からポロっと落ちてきて、結局はそれが原因で、いいところまで追い詰めたヤッターワンに逆転負けを喫したり、突如として生徒会長に立候補したりするのかもしれない。

 ところで私は一本抜けているのだが、それは三年前のことである。私にとって初めてだった水戸の正月は妙に寒く、無警戒に外をうろうろしていた私は、そのせいで「一過性顔面神経麻痺」たらいう病気を患った。たぶん脳から顔に繋がる神経の炎症かなにかで、顔の筋肉を自由に動かせなくなるというものだ(痛覚などの感覚はある)。私の場合は顔の右半分の自由が効かなくなって、いろいろと辛かったものだが、幸い、その後の投薬治療でかなりの数の筋肉がまた私の支配下に戻ってきた。ただ、それでも一本か二本は、最後まで切れたままの神経があるようである。動かせない筋肉が残ったのだ。

 動かないのは「右目の下のまぶたを下にひっぱる筋肉」である。言葉にすると迂遠だし、なにか正式名称はきっとあるはずだが、あかんべえをするときに指で触れる部分、と説明するとだいたい言いたいことが分かってもらえるのではないかと思う。とにかくこれに対する配線が切れたままで、自分の意志では動かすことができないのである。

 自分の意志と書いたが、もちろん他人の意志でも動きはしないので、つまり単に「動かない」と言えばいいのだが、ではこれで日常生活にどう影響があるかというと、実のところ、別段困ることはなにもない。目が開かないわけではないし、つぶる側の動作は正常だ。驚いて目を見開くような表情をするときに、完全に目が開ききらない、というだけのことである。しかも、実際には動かないといってもゼロではなく、少しは働いてくれるようだ。

 ただ、付随して他の表情に関して、少し面白い因果関係が生じている。この筋肉(仮に「あかんべえ筋」と呼ぼう)が動かないので、目を見開けないわけだが、正味の話、まんがではないので、目を見開く表情などあまりやらない。ところが「微笑む」というのはこれとは違って、日々繰り返すことよくやることである。実はこの微笑むときにこそ、「あかんべえ筋」がないと、困ったことになるのだ。

 一般に、微笑むと目が細くなる。微笑んだときの表情、口角を持ち上げて笑った顔を作るときに、持ち上げたほっぺたに下から押されるためだろう。思いっきり微笑んだ表情(というのもおかしな話だが)を作ると、つまり、口の端をうんと持ち上げると、押されて目が閉じそうになる。このときに、目を閉じてしまわないで、開いておくために、どうやら「あかんべえ筋」が必要なのである。

 笑った表情を作って、しかも目を開いておこうとすると、目の下にある程度力を入れなければならない。これは、実は、今の私にとってはあんまり愉快な状態ではない。神経がきちんと繋がっていないからなのか、その状態で止めると、すぐに「あかんべえ筋」のあたりがぶるぶると震え始めるのである。まぶたが不随意的にヒクヒクと震えることがあるが、まず、これに近い。それを押さえ込もうとすると、なかなか辛い戦いを強いられるのである。

 そういうわけで、私はこういう場合、そもそも抵抗しないことにした。つまり、どうせ右目の視界が悪くなる(半分目を閉じたような状態になる上にガタガタする)ので、笑いたいときには最初っから右目を閉じておくことにしたのだ。視界は半分になるが、不完全でしかも震える視界よりはずっとよい。面白いのだが、「目を閉じるための筋肉」のほうは競争相手がいなくなって仕事が楽になったらしく、ウィンクはむしろ前より簡単にできるようになった気がする。

 とまあ、ここまで書いても、言ってみればそれだけのことであり、困った話でもなんでもない。好きなだけウィンクしながら笑えばよかろうなのだが、ただ、最近三歳になった娘が、私や妻に対して妙に頻繁に片目をつぶってみせるのだ。最近このことに気が付いたのだが、これは、もしかしたら私のウィンク癖が伝染しているのではないか、と思うのである。

 普通、にっこり微笑む場面においてウィンクはしない。というより、文化的にウィンクという動作そのものが表情の一つとして取り込まれていない気がする。少なくとも私は、他人にウィンクされたことなど、数えるほどしかないのだ(日本だからこうなのか、それとも欧米においてもウィンクするのはドラマやアニメの中だけのことなのかはわからないが)。ところが、娘は違う。生まれたときからいる、もっとも身近な大人の一人が、こちらに向け、にっこりと微笑みかけてくれるそのときに、必ずウィンクをしているのだ。たぶんそれで、娘は「笑うときにはウィンクをするものだ」と覚えて、実施しているのではないか。

 以上は、嘘みたいだが、事実関係について言えば本当のことである。解釈まで正しいかどうか分からないが、娘のような年頃の女の子がこれをやるのは可愛いので、まあいいんじゃないかなあ、と思っている。問題は、ウィンクしながら笑っている自分(34歳二児の父)の顔を鏡で見ると、かなり「一本抜けている」ように見えることだが、まあ、これも仕方がないことである。一本切れたままなのは事実なのだ。


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