試合を振り出しに戻す

 生徒会副会長の三田美幸は腹を立てていた。いったいぜんたいどこに行ってしまったのか、主観的には突然いなくなったかのように見える同僚を探して、広いスーパーマーケットの中を探し回った末、いいかげん腹を立て、あきらめて出口に向かったところ、入り口のところに、まさに目的の人物、もう一人の生徒会副会長であるところの、岩城直人の学生服姿を見つけたのだった。

「なにをしているの」
と三田は聞いた。こころなしか声が険しくなっているが、ここは険しくあるべきだと思っているので、取り繕ったりはしない。
「ああ」
とこちらを見て、眉を上げた直人は、スーパーの入り口の、二重扉の間になっている空間に立って、壁の掲示板を指差している。そこにはA4の半分くらいの大きさの紙が何枚か、貼り出してあった。直人はこう答えた。
「意見を書いているんだ」

 三田はそれを聞いて、頭に血が上るのを感じた。だいたい、この男にはこういうところがある。先月だったか、指に包帯をしているのを見かけて、どうして包帯を、と聞くと「怪我をしたんだ」という答えが返ってきた。鼻白みながら、じゃあなぜ怪我を、と聞くと「おれがどんくさいからだな」との答えである。ちっとも要領を得ない。すべてわかっていて、こちらをからかっているのではないらしい、というところだけが救いだが(要するにそういう男なのだ)、いらいらすることには変わりはない。これが「性格が合わない」ということかもしれない。

「ああ、それ、半分持つよ」
と直人は、手にしていた紙切れを備え付けの箱に入れてしまってから、三田に話しかける。三田が抱えているのは、今日、かれらがスーパーに来た目的、生徒会の買い物で、マジックや絵の具やコピー用紙やなんかが入ったスーパー袋だ。三田は、差し出された直人の手を見て、わたすもんか、というしぐさをしてみせてから、もう一度聞く。
「私が言いたいのは」
 直人は、いったん差し出した手を所在なげにぶらぶらさせてからポケットにしまった。
「あなたが買い出しを放り出して何をやっているのか、ということよ」
 直人は、そこでようやく理解したとばかりに、ああ、と声を出してから、言った。
「これは。すまん。ごめんなさい」
「いいけど」
と、今度は三田は直人に荷物を押し付ける。全部持たされた直人は、うめき声をなんとか飲み下す。

「あのね、三田さん。野球ってあるじゃないか」
「そりゃあるわよ」
「サッカーというのもある」
「バレーもバスケもテニスもね」
「うん、そうだね」
「で、それが」
 そう言って、三田は直人をにらむ。
「こういうのは、いろんなルールのもとで、二つのチームが試合をするわけだ。でも、ルールが違えば試合形式も違う」
 口を挟もうとした三田を制して、大荷物を抱えたまま直人が話す。
「こういうのを単純化して、一つ『番狂わせ』の起きやすさが、得点の大小によって決まるんじゃないかと思うんだ、つまり」
「わかった。早く帰りましょうよ。会長とか植野君とか、待ってるよ」
「つまり、勝利を決めるのが一点か二点の競技は、弱いチームが強いチームを倒す、番狂わせが起こりやすい。これに対して、百点や二百点の比較で決まる競技は、だいたい順当に勝敗が決まる」
 聞いてないのか、そういう男なのか、直人は続ける。のみならず、手に持った荷物を傍らの台の上に置いてしまった。台には「ご意見はこちらへ」とペイントしてある。
「もっとも、おれが知ってるのは野球とサッカーだけだけどね。この二つを比べると、確かにサッカーのほうが得点が少なくて、かつ、番狂わせが起きやすい感じがする。高校生がプロチームに勝ったりするのはサッカーだ」
 三田は、とりあえずうなずいておくことにした。直人は、得点機会がどうしたとか、平均が分散してどうとか、そういうようなことを話している。
「…それで。こういうところの意見だよ」
と直人は壁を指さす。そこには、このスーパーマーケットが設けたらしい「お客様の意見」という、掲示板があった。

「これ、読んでごらん」
 三田が動こうとしないので、直人は自分で指さした投稿を自分で読み始めた。
「『鮮魚コーナーでかかっているアナウンスがうるさいです。もっと音を小さくしてください』…で、おれ思うんだけど、こういうところに意見を書くひとって、どれだけいるだろう。利用者よりはずっと少ないよね。現にここに貼ってある意見は、今これだけだ。店長は『ボリュームを絞るよう検討します』か、なるほど」
 直人はひとりうなずいて、続ける。
「スーパー側は思うんだな。こういう意見は利用者の生の声だから、尊重しないといけないと。でも、おれは思う。これはちっとも、なんの意見も反映していない。あえて言えば、声の大きいひとの意見だよ。あるいはヒマな人。そう言って悪ければ筆まめな人」
 三田はそこで言葉を切った直人に向かって、にこ、と微笑んでやった。この笑みのことを三田は自分で「氷の微笑」と呼んでいる。
「だから思うんだ。うん、ちょうどサッカーみたいに、たまたまオウンゴールでとった一点が勝敗を決めるゲームなんじゃないかと」
 直人はかえって三田の笑みに元気づけられたらしい。なんと鈍いやつだろうか。
「もっと大規模な、たとえば放送局やなんかに寄せられる意見はそうじゃないんだろうね。多数の意見が寄せられるから『番狂わせ』は起きにくいだろう。でも、これくらいの規模のスーパーだと」
 直人は三田に笑みを向けた。
「たまたまの意見が採用されて、経営が変な方向に舵を取られてしまう確率が高くなる。そういうわけだよ」
 なにが「そういうわけ」なのか、まったくわからなかった。三田は、できるだけ冷たい声になるように、この男にもそれがわかるように、努力して言った。
「……それで…」
「ん?」
「…それで、『なにをしているの』」
「あ、ははあ」
 直人はまた笑う。
「試合を振り出しに戻していたんだよ。『いつも楽しく買い物をしています。以前、魚売り場の“カツオにはビタミンが豊富です”という放送を参考にして買ったカツオのタタキが、とてもおいしく、家族一同喜んで食べました。あの放送を聞くと買い物が楽しくなるのでこれからも続けてください』って」

 三田は、心の中で直人を殴った。腹の下の方に向けて、力のある拳を叩き込んだ。一発、二発殴って、直人が腹をかかえてうずくまったところを想像して、やっと気持ちがある程度収まって、周りを見る余裕ができた。母親に連れられた二、三歳くらいの女の子が、三田と直人のほうを見上げて立っていた。

「やあ」
と直人が、なにを考えているのか、その子に向けて手を振る。三田も反射的に、
「こんにちは」
と笑って言った。女の子は恥ずかしそうにお母さんのスカートの陰に隠れると、行ってしまった。

「さてと、帰ろうか」
と直人は荷物をかかえる。軽そうな一袋だけを三田のほうに差し出して、
「喧嘩しているように見えたろうなあ」
と言う。三田はその袋をぐい、と奪い取って、さっさと歩き出した。まったくこの男は。わかっていてこっちをからかっているのではないらしい、というところがまた、腹立たしいのである。


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