この世の中にどうして「子守歌」というものがあるのか、歌を聞くと子供が眠くなるのか、と昔私は思っていたのだが、自分で子育てをするようになって、一つ、あるいは、と思うことがある。すなわち、歌は楽なのである。もうすぐ寝そうな子供をなにかに集中させるには「歌う」というのが一番楽な方法なのではないか。
これは私と私の娘息子の感想なので、ほかのお父さんお母さんには別の意見があるかもしれないのだが、「寝かしつけ」のときには、子供を布団に寝かせ、起き上がったりさせずに何かにじっと集中させるということが必要になる。絵本でもよい。昔話をしてやってもよい。いろいろ話しかけてやったり、手遊びをしてやってもよい。しかし、こういうものの中で、歌こそが一等楽である。歌っていると、子供は安心するし、私は歌いながら別のことを考えられる。他に比べ「コミュニケーション」ということではやや負荷が軽いのかもしれない。歌というのはかなり自動的に出てくるので、テレビだって見られる。本当だ。
こうして、言ってみれば、私の娘も息子も「歌で育てた」と言ってもいい状態になっているのだが、おそらくはそういうわけで、娘も息子も妙に歌う。それも童謡やらテレビの歌だけでなく、自分で作った勝手な歌を歌っている。
上の画像が表示できない環境の方には申し訳ないのだけれども、これは私の息子が歌っていた歌である。「まめ」というのはこの子の場合「だめ」ということなので、「熱いから触っては(飲んでは)だめ」ないし「熱くて触れない(飲めない)」という意味だと思われる。
母親の小言を歌にしてみたのだろうか。歌っているのが私の子だからだろうとは思うが、妙に心に残るのは確かで、最近私は、通勤途中、見上げた空に、ああ今日も暑いなあ、と思えば、
まめ、まめ、あちっち〜
あるいは午後三時、職場でいれたコーヒーを一口、いやまだちょっと熱かったな、と思えば、
まめ、まめ、あちっち〜
と静かに歌っている。「暑い(熱い)」というのは、人生においてもしかして「痛い」の次くらいによく口にする言葉ではないかと思う。
と、そんな感じで子育てをしていると思ってもらうとよろしいのだが、まこと、コミュニケーションというのは一生のテーマである。NHK教育で「わたしのきもち」という番組があって、これはまさにそのへんのことを教えんとする、子供向けのプログラムだ。それにしても、ここで扱っている「自分の気持ちを相手に伝える」ということが、実際にはいかに難しく、複雑なテーマを数多く含んだ問題であることか。他人と仲良くなるために、間違ったやり方はあるが、正解なんぞはない。私自身、大人になってもまだまだ悩むことばかりである。
その意味で、日曜日など、子供達を公園に連れてゆくと、よく遭遇する状況があって、そのたびに困っていることがある。いくつかパターンがあるが、たとえば、砂場に連れて行く。そこで知らない子、よその子が、家から持ってきたらしいバケツや、熊手や、そういったようなプラスチックの道具を広げて遊んでいる。うちの子はそれを見て、どうやら自分も遊びたくってしかたがない。さあどうするか。
知らない子のおもちゃでは遊んではいけない、ということを、大人である私は知っている。いや、いけないということはないかもしれない。いけないのは勝手に遊んだ場合であり、持ち主に「一緒に遊ぼう」「貸してね」と断ればよいのだ。相手の子供も小さくて、さほど気にするまいという場合には、その子の親に一言、一緒に遊ばせてやってください、と頼めばよい。いや、大抵の場合は、それにも及ばないだろう。なにも「そのおもちゃをくれ」と頼むのではないので、会話はごくさりげない、いいお天気ですね、お子さん何歳ですか、というレベルのものでよい。そうすれば、相手(親)だって子供達が一緒に遊ぶことについて文句を言ったりするまい。
などと、偉そうに書いてはいけないのである。実際、上のようなことを私ができるかというと、できないのだ。あなたはどうかわからないが、私はできない。「こっちはお父さんだが向こうはお母さんであることが多い」ということもあるが、このような用事(おもちゃを貸してください)で知らない人に話しかけること自体、どうにも億劫で、できれば避けたいことに感じてしまう。なんとなくだが、希望をうまく表現する技術の問題ではなくて、もう一段原始的な、性格や意志に根ざした問題のような気がする。
技術の問題ではない、というのは「どうしてもというならこういう手段をとればよい」ということ自体はわかっているということだが、つまり、私も大概「おっさん」なので、必要なことなら躊躇無く話しかけることはできる。しかし、この場合「他人のおもちゃで遊びたい」というのは、そこまでの要求ではない、と思っているわけである。自然な感想ではないかとは思うが、だからといってこれでよいとも思えない。面倒さに負けて、どこかで自分自身をだましている気もする。いつも子供たちに申し訳ない気がしているのだ。
面白いのだが、子供というのは天真爛漫なので知らない子ともすぐ仲良くなれる、だから他人のおもちゃでも気にしないで「遊びたい」と思うのだ、などということはない。全くないと思う。そもそも、三歳くらいまでの子は「他人と遊ぶ」ということ自体難しいようである。同じくらいの歳の子と一緒になって、相手とのやり取りを楽しむ、世界を共有して遊ぶというのはなかなか難易度の高い、獲得すべきスキルであるらしい。あの子がおもちゃで楽しそうなので自分も輪に入りたい、と思っているならまだいいのだが、もしかしたら「砂場にアイテム発見」「アイテムを守るモンスターを発見」というくらいの気持ちでいるのではないかと、私は疑っている。
荒野に石が落ちていても、それは別に怪しむべきことではないが、時計が一つ落ちているとしたら、それには何か理由があるはずである。しかし、子供にとっては時計が落ちていようが熊手やバケツが落ちていようが同じで、ちっとも怪しいとは思わないらしい。誰かのものに違いない、とは思わない。ただそこにあるもので遊びたいのであり、そして、お父さんは今日もフォローに困るのである。自分自身が歌に頼ってばかりの、コミュニケーションスキルへの反省とはまた別に、早くこのへんの機微が分かるようにならないかなあと思う。