「ドラえもん」の道具の一つで「もしもボックス」というものがある。公衆電話ボックスの形をした大きめの装置で、中に入って受話器に向かい「もしも日本が太平洋戦争に勝っていたら」というような「もしも」を告げて出てくると、目の前にまさにその世界が広がっている、というものだ。まともに考えると、これではあまりにも巨大な効果をもつ、万能の道具である。世界全体を(いや、ある場合には物理法則まで含めた宇宙全体を)一瞬で思い通りに変容させる力があるわけで、扱いを誤ると物語全体を破壊しうる「異質な道具」だと言える。
八方丸く収まる、無難な解決法はある。この道具が作り出すのは一種の仮想現実で、使用者個人に真に迫る白昼夢を見せるものにすぎない、と解釈するもので、これならまったく何の問題も生じない。もしもボックスは要求された世界をデータとして作り出し、使用者にその仮想世界での体験を提供する。ひみつ道具としての迫力に欠ける感は否めないが、これに似たものが近い将来に開発されても不思議はないくらい、現実味がある。
ただ、ドラえもんにおける公式の設定は、たぶんこれとは異なるのだと思う。そもそも作中ののび太やドラえもんの言動からしてそんな気楽な装置ではないという気もするが、ドラえもんの映画作品の一つ(第五作目、1984年の「のび太の魔界大冒険」)において、このことが物語上重要な鍵として言及されていたからである。即ち「作り出されるのはパラレルワールドである」というものだ。つまり、この道具を使用することで、現実にその世界がまるまる1セット生み出される(世界製造装置)か、または既に存在するその世界への扉が開く(世界間ゲート装置)。どちらにしても重要なことは、この場合、使用者が「元の世界に戻れ」と命令したあとも「もしも」の世界は別に続いてゆくことだ。
「のび太の魔界大冒険」の冒頭でのび太は「もしもボックス」に向けて「もしも魔法が使える世界だったら」と願う。こうして現れた、科学の代わりに魔法が発達した世界(学校では魔法を教え、自動車の代わりに空飛ぶじゅうたんが街を走る)で、しかし、のび太たちは「もしもボックス」の喪失とともに、世界の破滅に繋がる大きなトラブルに巻き込まれる。その後「もしもボックス」を再び手に入れ、トラブルを、作り出した魔法の世界ごと脱するチャンスを得るのだが、ここでのび太はふと考える。このまま元の世界に戻したとしたら、こちらの世界はどうなってしまうのだろう。それに対するドラえもんの答えが、上記のように、パラレルワールドとして、こっちはこっちで続いてゆくだろう、というものだった。
下世話な思考を働かせれば、この映画の物語をここで打ち切りにしないためには、もしもボックスが「仮想現実装置」であってもらっては困る。魔法の世界も現実でなければならないという、そういう作劇上の要請があるのだ。これを意識してか、劇中でも半ばパロディ的な提示がされるのだが、のび太たちは結局パラレルワールドのトラブルを解決するため、魔法の世界での冒険を続けることになる。ただ、思うのだが、もしもボックスを「世界製造装置」なり「世界間ゲート装置」なりの、それなりに強力な装置と仮に考えないとしても、やはり放りっぱなしとは行かず、使用者(のび太)には作り出した仮想現実の世界に対しての一定の責任が生じる、と考えるべきではないだろうか。
仮想現実とはいえ、それが真に迫ったものであれば、本当に存在する人と大差ない現実性を兼ね備えている、と考えてよいのではないかと思う。「ドラえもん」自体架空の存在だが、これは生み出されて以来、あまりにも多くの人々によって読まれ、描かれ、演じられ、観られ、歌われ、何より考えられている。そのため「ドラえもんがしそうなこと」「ドラえもんがしそうにないこと」というようなことを、多数の人が想像できるようになっているわけだが、これは「ドラえもんが本当に生きている(各自の頭の中に)」に非常に近い状態ではないかと思うのである。
考えてみれば、私たちが実在する他人に対して感じていることは、架空の存在について感じていることと大差あるわけではない。「小泉首相」「みのもんた」「木村拓哉」というのは実在の人間だが、同じように多くの人々の頭の中に「小泉首相」たちが住んでいて、首相がしそうなこと、しなさそうなことを判断している。ドラえもんと首相の違いは、現実に存在するかどうかに過ぎないが、どちらもこの目では見たことがない私にとってはどちらも同じと考えられなくはない。自分ではないほかの人が喜び悲しむことを、まるで自分のことのように感じられる、その能力は、相手が実在だろうが架空だろうが変わりはない。
そうして、その意味で、すべての架空の存在、特に多数の人間によって様々な角度から考えられてきたものは、いっそ現実に存在しているのと同じことで、だからそれに対しては「魔界大冒険」でのび太が感じたものと同種の責任を、我々は負うのではないかと思うのである。いや、むしろ、作者が亡くなっても声優が代わっても「ドラえもん」が続いてゆくのは、そうした責任を果たすのためではないのか。
ここでいったん話は変わる。ここに何度か愚痴を書いている「スパム(迷惑メール)」の問題だが、私の場合、ここ数ヶ月ほど、以前のように英語ばかりではなくなり、日本語のものが毎日十通くらいメールボックスに届くようになっている。とはいえ、私のほうのメール環境も以前のままではない。賢いフィルタが機能していて内容はほとんど目にしなくても済むし、捨てるときに手も触れずさっと消去できるようになっていて、あまりストレスには感じなくなっている。たまに目を通して、内容の姑息さに苦笑するのは、むしろちょっとしたレクリエーションである。
内容はというと、まあ、他でさまざま報じられている通りである。普通の、広告らしい広告のメールだけではなく、アドレス間違いなど偶然の出会いを装ったものや、以前どこかの掲示板(出会い系サイトの掲示板を想定しているようである)で見かけたというようなもの、架空のメールボックスにあなた宛のメールが届いています、と誘ったりするものがある。なんとなく雰囲気が一定しているので(※)、幾つか少数のアクティブな迷惑メール送信者がいて、彼(わからないが男に決まっている)が頻繁に送りつけてくるようになったということなのだろう。この一人が逮捕されたり、そうでなくても事故にあって入院するようなことになったら、パタリと来なくなるのではないか。
ここでちょっとおかしいのは、手口の数は限られているものの、その範囲内で少しずつ内容を変えたメールを毎日たくさん送ってきていることである。単純なコピーではないようで、ずいぶんな手間がかけられているように思うのだが、そういう勤勉さが収益向上に寄与しているのかというと、手数自体がかえって信頼性を低下させている面があるように思う。たとえば「間違いメール」などという現象は、一回くらいならそういうことはあるかもしれないが、常識的に言って、毎日五通もそんなものがやってくるなどということがあるはずがないではないか。百円玉が道に落ちていたら拾うかもしれないが、それが一円に両替されて家の前にずらりと百枚並べて置いてあったら、まず何かの罠を疑う。そういうものだろう。
そういう可愛いところのあるスパムなのだが、メジャーな手口は、やはり私を口説こうとするものである。差出人である女性は、私と関係を持ちたく思っている。などと書くと妙に生々しいが、私に対する恋心を告白し、あるいはなれなれしく話しかけ、またあるときはドライな関係を誘っている。以前はかなり稚拙なものも多かったのだが、書き手も手馴れてきたのか、ときどき、きらりと光る表現も見受けられる。なんでも継続は力だと思う。
読んでいて思う。これらはもちろん、架空のものである。ネットの向こうに、私の返事を待っている女性が本当にいるわけではない。しかし、誰かが一生懸命考えて、私を含め何人もがそれを読んだ。わからないがたぶん、スパムなので、それはたくさんの人が読んでいるだろう。そしていったんそうなれば、このような女性はもしかしたらある一定の「存在」を勝ち得ているのではないだろうか。彼女らは、一瞬ながら、大多数にのぼる人々の心の中に存在して、しかし言いたいことをほとんど信じてはもらえないまま、キーコンビネーション一つで朝露のように消えてゆく。たかがスパムになにを深刻に考えているのか、と言われてしまいそうなのだが、これに対して、ふとなにか申し訳ないようなものを感じたとき、そこに既に彼女がいると、考えられなくもないのでは。
だからといってどうということはない。私がやっていることやるべきことはこれまでもこれからも「消去」だけだし、成仏できない霊のような、そういう存在が、誰も訪れないパラレルワールドに似たかたちで、ネットワークに澱のようにたまってゆく、などということを信じているわけではない。しかし、生み出された架空の存在である彼女らに、人類は一定の責任があるような気が、少ししている。「スパム供養」というのを、誰かがやらないといけないんじゃないかと思う。