太陽系を飛び出して、ちょっとお隣の星系まで、ということをある程度まじめに考えると、星の海は広漠で、人の技術も命もあまりにもはかないものである。ワープやハイパードライブはもちろん、ワームホールなども現実問題として宇宙旅行に利用できるようなものではなく、宇宙船を相対論的速度まで加速する強力なエンジンや人工冬眠すら想像上の技術に過ぎない。というわけでひとつ、ありそうな形の恒星間宇宙船として「世代宇宙船」というものが考えられている。
アイデア自体は単純で、現在の延長として無理のある技術はあまり使われていない。目的地までの距離が、人間の寿命のうちには渡りきれないくらい遠いので、この際宇宙船を思いっきり大きく作っておく。それこそ、一つの町くらいの大きさにする。宇宙船は数千、数万の人を乗せて地球を出発する。宇宙船の旅は相対的にゆっくりだが、この間、乗組員たちには宇宙船の中で生活し、結婚し、子供を産み、次代を育ててもらう。航海は何百年にも及ぶとしても、ついには何世代目かの子孫がちゃんと目的地について、そこであらたな人類のコロニーを作ってくれることだろう。
などと、これとて、そんな巨大なシステムが人類に建造できて、何百年にも渡って稼動させられるなんてことがあったとしての話だが、アシモフがこの世代宇宙船について「そんな宇宙船に乗りたがる者はいない」と書いたことがある。実際に作ったら乗りたがる人は結構いそうな気がするが、ここのところの不安を解消するため、いくらか新技術を導入して「タマゴの状態で運んで、目的地近くで孵化させる」という方法もあるのではないかと思う。つまり、受精卵かその前の卵子精子の状態で宇宙船に乗せ、もうすぐ到着しそう、到着した、というところで、ロボットの手によって子供を産み育てるのである。
この「子守り船」は世代宇宙船よりもずっと小さく簡単な構造で済むので、これくらいならもしかして二一世紀中くらいに実現させられそうな気がする。ただ、世代宇宙船に比べても不安なのは、こうして宇宙船の中で生まれた子供たちが、それでも我々と同じ人間と言えるのかどうかである。もちろん、長年の宇宙線被曝に耐え、受精卵のまま何百年もの時間が経過していていたとしても、かれらは我々の子孫には違いない。遺伝的にはなんら違いはないだろうと思われる。ただ、遺伝子は、言ってしまえば、我々が人間であることの最も大きな要素ではない。我々には言葉や記録の発明によって得られた「文化」というものがあり、それをある程度共有できるからこそ、同じ人間であると言うことができるのではないか。
考えてみると我々は「科学技術」「言語」「芸術」などの文化らしい文化とともに、自分が生まれ、成長する間に、さまざまな経験を積み重ねている。保育園に行って七夕飾りを作り、小学校で全校マラソンを走り、中学校で吹奏楽をちょっとやって、高校で学園祭の実行委員に取り組み、大学で友人と居酒屋で泥酔して道端で寝る。そういういろいろな事柄は、同世代でも各人すべて同じではないだろうが、たとえば他国の人と比べ、同国人の間での共通点が確かに多くなるはずである。「日本人」というくくりは曖昧なものだが、つきつめて言えば、経験や知識のおおまかなグループを考えて、その多くを共有している仲間、ということになるのだと思う。
そういう前提で考えるとき、宇宙船の中で生まれた子供たちは我々の仲間だと言えるのだろうか。人工子宮で生まれ、コンピュータに育てられる子供たちは、我々や地球に残った我々の子孫とはずいぶん違った経験をするはずである。我々とは見ているテレビも応援するスポーツのチームも違う(「応援するスポーツ」などないかもしれない)。食べている料理や着ている服、話す言葉さえ少し違っていることだろう。二つに分断された国では同種の悲劇が存在すると思われるが、それでも同時代を生き、文化交流がある分、宇宙船よりましだと言える。宇宙のどこかで突然生まれた、物理的文化的に我々と分断された少数民族が、最終的に他星において社会を形成したとして、それは我々が仲間として親しむことができる社会だろうか。だからこそ、我々は教科書の変化に神経質になり、ワカモノの言葉遣いに不安を覚えるのではないか。
どうすればよいか。「そういうものだ」と割り切ることもできる。世代間の断絶は今に始まったことではない。「文化的に我々と同じ」でなくても「文化的に我々の子孫である」で満足すべきかもしれない。また、距離が遠く離れていても、通信を続け、生まれた子供たちとの文化的な交流を絶やさないということも理論的には可能である。しかし、もう一つ「乗組員をだます」という方法もあると思う。
つまり、生まれた子供がある程度成長するまで「これは地球上だ」と思わせておくのである。宇宙船には、過去の地球のある時期の教科書や新刊書、テレビやラジオの番組、流行の服や音楽、新しい発明品、ゲームやおもちゃ、インターネットのページ等をあらかじめ乗せておく。生まれた子供たちに、これを用いて、まるでそこが地球上のある小さな町であるかのような体験をさせ、教育を施す。かれらはリカちゃん人形やルービックキューブやファミコンで遊び、「おかあさんといっしょ」や「サザエさん」を見て育つことだろう。ロボットの父母に育てられ、ロボットの教師に我々と同じ(でも少し科学的には進んだ?)教育を施される。テレビ番組や新製品、今週の週刊少年ジャンプを製造する「外の世界」の存在を信じて疑わず、自分のことを、たまたま東京や海外への旅行をする機会がない、日本のある小さな町に生まれた、普通の少年少女だと考える。
そしてあるとき明かされる。自分が実は宇宙船の乗組員であり、これからは新しい惑星で新しい暮らしが待っているのだと。かれらがその新たな生活をうまくこなせるかどうかはよくわからないが、かれらが我々が同胞とみなせる、我々と似た人間たちであることは間違いない。
この想像は、私のようなおっさんよりも、中学生くらいの、もっとずっと若い世代にとって、全く別のリアリティを持つのかもしれない。つまり「自分がまさにその子供たちであり、今、宇宙船の中、最後の教育を受けているところである」というものである。
中学生くらいまでの人が、ここをどのくらい読んでくれているのかよくわからない。が、もしあなたがそうなら、考えて欲しい。今、目の前に広がっている世界は、文化的に自分達と同質な人々を作るために、はるかな過去の地球人たちが作った幻想なのかもしれない。あなたは、自分が宇宙船の中で真に再現できなさそうな体験をしたことがあるだろうか。そうでない場合、あなたが次に開けるドアが、宇宙船の閉鎖された展望デッキに繋がるものではないという確証は、どこにもない。そして、そこにはあなたたちに耕されるのを待つ、未踏の惑星が広がっているのかもしれないのである。