ごほん。ではこの中で「世界陸上で織田裕二の顔はもう見たくない」と思っている人はいらっしゃいますか。ああ、けっこういますね。ひとりふたりさんにん。ちうちうたこ。はい。わかりました。今日はそういう方々へのお話であります。
まず、想像していただきます。ずうっと200メートルほど、真っすぐに長く続いている通り沿いに、ビルが建ち並んでいる、オフィス街があったとします。一様に並んでいるたくさんのビルで、たくさんの人が働いていて、その人たちは、お昼になるとお弁当を買いに通りにでてきます。お弁当屋さんは、ミニバンにお弁当を積んで、お昼になると売りにくる移動販売店です。
ここで仮に、コンビニだとか飲食店に入ったりといった他の選択肢はないものといたしましょう。また、お弁当を買う人はきまって次のような行動をとるといたします。通りにでてくると左を見て、右を見て、一番近いお弁当屋さんを探します。そうして、一番近い店に向かって、そこで弁当を買うのです。現実には好みもありましょうし、人がいっぱい並んでいたらそれだけで敬遠しそうなものですが、まあ、ばっさりと単純化いたしましょう。
さて、お弁当屋さんは二つあったといたします。それで、通りの一方の端から50メートルと、150メートルの場所にそれぞれお弁当売りがいたとしましょう。このとき、通りの端から100メートルまでの位置にあるビルで働いている人は、一つ目のお弁当屋さん(東京弁当さんという名前にいたしましょう)でお弁当を買うでしょう。100メートルから200メートルまでで働いている人は二つ目のお弁当屋さん(こちらは、ええと、なんでもいいんですが、では「富士屋」さん)で買うことになります。
これは非常にわかりやすい状態であります。しかし、これで安定でしょうか。といいますのは、これで二つのお弁当屋さんは満足するでしょうか。これが、そうではないのです。50メートルのところにいたお弁当屋さん、東京弁当さんが、あるとき気を変えて「60メートル」のところに移動して、今日はここで店開きをしようと思ったといたします。そうするとどうなるか。
その日の昼、ちょうど100メートルのところで働いていた人が通りにでてきます。今までは、この人にとっては二つのお弁当屋さんはちょうど等距離にありました。ところが今は東京弁当さんは移動しておりまして、東京弁当さんまでの距離は40メートルになっております。富士屋さんまでは50メートルのままです。この人は東京弁当さんのところにゆくでしょう。こうして、60メートル地点に移動した東京弁当さんはゼロから105メートルまで、富士屋さんは105メートルから200メートルまでのお客を分けあうことになります。東京弁当さんは、60メートル地点に移動して、得をしました。シェアが増えたのです。
富士屋さんも黙ってはいません。お客が減ったことと、その理由を見つけた富士屋さんは、150メートル地点からたとえば、130メートル地点に移動して店を出すことにするでしょう。100メートル付近のお客は、二つのお弁当屋さんのうち、今度は富士屋さんを選びます。ゼロから95メートルまでが東京弁当さん、残りが富士屋さんを選ぶことになりますね。要するに、どちらのお弁当屋さんも、通りの中央に近づくと、得をするのです。
これが行き着くところまでゆくと、どうなるかというと、おわかりですね。東京弁当さんも富士屋さんも通りの中央、100メートルのところに、ぴったりくっついた状態で店を出すようになるでしょう。これで、ゼロから100メートルまでのお客を東京弁当さん、残りを富士屋さんが取って、安定状態です。これ以上、どちらのお店も動けません。動くと損をするだけです。
しかし、この状態は、オフィス街の人々にとってはあまり幸福な状態ではありません。最初の状態なら、最悪でも50メートル歩けばお弁当屋さんがあったのに、今では、端の方の人は100メートル歩かねば最寄りのお弁当屋さんにたどり着けません。オフィス街のひとたちは平均すると、不幸になりました。お弁当屋さんも最初に比べて、べつに幸福にはなっておりません。シェア50パーセントは、最初と変わっていないのです。それでも、この仮定のもとでは、こういう状態にどうしてもなってしまうのですね。
さあ、ここまでは、別に私の独創ではありません。ゲーム理論などを扱う数学の本やなにかにちょくちょく書いてあることです。ここから「二大政党の言うことはだんだん互いに似通ってくる」「寡占は独占より少しましなだけ」というような比喩が導き出せるかもしれませんが、私が本日このお話をいたしましたのは、世界陸上にこの情景が適用できるのではないかと思うからであります。
東京弁当さんが最初の50メートルから60メートル地点に店を動かすときに、東京弁当さんは通りの端、ゼロメートルのところにいる人について考えたことでしょう。自分の店がちょっと遠くなることについて、ゼロメートルの人はどう思うだろう。怒るかな。もう自分の店には来てくれなくなるかな。いやいや、そんなことはありません。ほかにコンビニなりそば屋さんがあるわけでなし、富士屋さんはもっと遠い。自分の店に来るしかないのであります。であれば、いくらでもゼロメートルの人には苦汁をなめてもらっていいではないかと。
一般に、テレビ局は、より多くの視聴者を引きつけようとするでしょう。ファンに向けてはもちろん、ファン以外の人をできるだけ多く取り込むために、内容を「マニア向け」というよりはソフトに、誰にでもわかりやすいものにしようとします。こうして、全体としては本当のファン向けではなくなってゆきますが、ファンは、ほんとは陸上競技だけが見たいと思っているまじめなファンは、それでもやっぱり見てしまいます。よほど怒れば、それはもう自分で弁当を作って持ってくるくらい怒れば、別でしょうが。そうでない程度の話であれば、まことに申し訳ない事ながら、ファンたちには苦汁をなめてもらうという、そういうことになってしまいます。
だから、あなたが陸上競技のファンでも、怒らないことです。あなたは、演出過多の番組を見せられることで、誰かの幸福の犠牲になっているのではありません。誰も幸福になんかなってはおらず、テレビ局でさえ幸福にはなっておらず、平均すると、ただみんなが不幸になっているのです。しかも、熱心なファンほど損をしています。そして、これはたぶん、織田裕二氏自身を含め、この世の誰にも、どうしようもないことなのです。