大阪のどことも知れぬ洞窟の奥深く。出撃ハッチと格納庫をくぐり、司令室を通り、手術室兼実験室を横目に眺めながら狭い廻廊を抜けたその先に、小さなコンサートホールほどもある広大な空間がうがたれている。壁際に配置された忠実にして精強な改造兵士達によって守られて、威厳に満ちた豪奢な調度品で飾られた玉座には、少年のような王が静かに座している。玉座の傍らには美しい女王が長い笏を手に控え、そして、緋色のカーペットのはるか下手に、這いつくばるようにして、白衣を来た老人が王への忠誠を表す。王国の名は「獣人帝國バグー」。世界征服をもくろむ悪の秘密結社である。
謁見室に王、獣人皇帝の声が響き渡った。
「それで、我々の世界征服計画はどのようになっておる、獣人博士よ」
呼びかけられた白衣の老人が、僅かに顔を上げ、言った。
「はっ。申し上げるももったいない事ながら、世界征服にはまず日本の、そして大阪の現政権の打倒が必要となります。現政権の打倒のためには社会に対する府民の不安を醸成せねばなりませぬ」
「うむ」
「そのためには、府民に自分たちがとるにたらぬ存在であることを思い知らせ、社会に絶望させるのが一番かと存じます」
「そのとおりだ。博士よ」
重々しくうなずく皇帝に代わって、傍らの女王、獣人皇后が続けた。
「して、どうする博士。どうやって府民どもの間に社会への絶望を植え付けるのだ。もはや失敗は繰り返すまいぞ」
「ははっ。今度こそはそのような」
失敗に終わった過去の計画を蒸し返され、獣人博士は平伏する中にも、わずかな反感をにじませる。
「大阪各地のベッドタウンに、無料の自転車を設置いたしまする」
「幼稚園バスの次は……自転車っ」
目をむく女王をわずかな指の動きで制して、王は言った。
「続けよ」
「ははっ。駅前を含む町内数ヶ所に貸し出し所を作り、そこに二十台ほどの自転車を配置いたします。自転車は登録も必要なく、市民は誰でも自由に乗ってよいこととし、ただ使用後は貸し出し所に戻すルールといたしまする」
「便利ではないか。なぜそのようなことを我々がせねばならぬ」
怒気を含んだ女声が響く。
「ははっ…それは…」
と獣人博士は皇帝の目を覗き込もうとする。
「よい。説明せよ、博士」
「ははっ」
「世の中にあるさまざまなことがらは、おおむね『攻めの要素を持つもの』と『守りの要素を持つもの』に分類することができようかと存じます。わたくしはこれを『Aシステム』『Dシステム』と名づけました。Aシステムはわずかな推進者によって成功するシステム、そしてDシステムは、逆にわずかな破壊者によって容易に破綻するシステムを指します」
「ふむ」
「たとえば、大陸間弾道ミサイルはAシステムで、ミサイル防衛システムはDシステムでございます。すぐれたサイトの存在がその価値を決めるワールドワイドウェブはAシステムであるのに対し、電子メールはDシステムでございましょう。数少ない迷惑メール業者によって環境が左右されますゆえに。それに、我々のような秘密結社はそもそも…」
「Aシステムだな」
「ご明察です。ただ、密告に弱いという点でDシステムともいえます。であるからこそ、我々は兵士をクローンによって『製造』しておりまする」
獣人博士は傍らに立つ改造兵士、バグメイトの勇姿をちらりと見た。
「勝者が名誉を得るスポーツ大会はAシステムでございますが、部員の誰か一人でも不祥事を起こすと出場停止となる点ではDシステムと申せます。タイムを競うマシンはAシステムで、旅客鉄道や旅客機の安全はDシステムとなりましょう。加点法で評価されるものがAシステム、減点法で評価されるものがDシステムと申せまする」
「もうよい。それが何だと言うのだ」
得意げに語る博士に対し、苛立ちの色を隠そうともしない獣人皇后が口を挟む。
「ははっ。『無料の共有自転車』が完璧なDシステムである、というところに要点がございます。このシステムの維持は、関係する市民全員のモラルにかかっておりますゆえ。見かけと異なり、これを継続するには、一人でもモラルの低いワカモノなどがいてはなりませぬ。そのような人物がたった一人、よいですか、たった一人いるだけで、必ずや数ヶ月のうちに、自転車は市内各所に乗り捨てられ、川に放り込まれ、ゴミ捨て場や物干しになり、せっかく作った無料自転車システムは完膚なきまでに破壊されるでありましょう」
「…う、うむ。しかし博士っ。だからどうしたというのだ。我々が整備した自転車が喪失し、それでもともとではないか」
「ははっ。恐れながら…」
「よい。予にはわかる。后よ。それを見た市民はどう思うかな」
「あっ」
「はっ。恐れながら『市民のモラルは地に落ちた』と考えるに違いありませぬ。ここの住民は借りたものも返せぬろくでなしぞろいで、自分らは無法地帯に住んでいると考えることでしょう。自治体への誇りは打ち砕かれまする。そして、放置された自転車は物言わぬ宣伝となろうかと存じます。街のあちこちに捨てられたかつての無料自転車の成れの果てを目の当たりにするたび、府民どもは絶望を強くするに違いありませぬ。そして必ずや、現政権に対して不満を述べ始めることでありましょう」
「よく見た。博士よ。さっそく計画を実行に移せ」
「ははっ。大阪府内の自治体に無料自転車寄付の打診を行いまする」
「よかろう。これにて謁見を終わる」
獣人皇帝は、くつくつと、静かに笑い声を上げた。
それから数ヶ月後の府内某所。サラリーマン各務剛志(四五歳)は、歩道橋の裏側に乗り捨てられていた「無料自転車」をやっとのことで引っ張り出してきた。飲んだ帰り、駅から歩くのがどうも億劫になった各務は、見つけたこの自転車に乗って帰ろうというのである。サドルにこびりついた埃を手でぬぐうように拭いた各務は、ぐっ、と喉の奥でくぐもった声を挙げる。
「タイヤが…ない」
そこにあるべきタイヤが無かった。いったいどのような悪意の結実として、このような自転車が放置してあるのか。各務は、スーパーヒーロースピードマンに変身して、この腹の立つ自転車を一辺十五センチの鉄のかたまりになるまで叩きつぶしたい衝動にかられ、そして、絶望のうめきを漏らす。日本酒を中心に痛飲したばかりで、変身に必要な「万歩計」の歩数は数百歩しかたまっていない。
「おのれ、獣人帝國バグーめ。いやわからんけど、こういうのはぜんぶあいつらの仕業だ。決まっている」
正鵠を射ているような、そうでもないような感想を漏らして、疲れきったスピードマン各務剛志は自転車をあきらめた。どうにも腹の虫が収まらないので、自転車を軽くひと蹴りして、足が痛かったので顔をしかめたりして、そうして、夜の住宅街へと消えて行くのであった。
こうして、獣人帝國バグーの野望はまた一歩実現に向かって歩みを進めた。せっかくの特別篇なのにこんなペシミスティックな話で大丈夫か、各務剛志。教育に悪いぞ、スピードマン。それでなくても運動不足なんだから、ぐちぐち言わずに家まで歩け、超光速流スピードマン。