ペットボトルの緑茶のコマーシャルで「余計なことをしていないからうまいのである」という意味の台詞を聞いた。やはり、現在はみんな余計なことをしては失敗している、そんな時代であり、「うまくやった」「手間なことをした」ではなく「余計なことをしなかった」が褒められるようになってきているのではないかと思った。こんばんは。大西科学です。こちらは基本的に余計なサイトです。
さて、ありがたいことに飲食物にはたいてい「原材料名」というものが表示してある。このへんの法律がどうなっているのか実はよく知らないのだが、たとえばくだんのお茶を買って原材料を見てみると「緑茶・ビタミンC」と書いてある。なるほど「ビタミンC」の添加はどうしても必要なことなのだとわかるわけである。なにか、酸化を防止して色を保つ効能があるのだと聞いたことがあるのだが、もしこれが正しいなら、ビタミンCは、どちらかといえば余計なもののような気がしないではない。
などと余計なサイトのくせに意地悪なことを書いてはいけないが、しかし書く身になって考えてみると「原材料」というもの、どうにも不安になるものである。たとえば緑茶に関しては重要な原材料に「水」というものがあるはずであるが、書かなくてもよいらしい。当たり前なので、省略してよいのだろうか。興味を持ってミネラルウォーターの原材料を調べてみると「水(鉱水)」と書いてあった。それはそうに違いないが、緑茶との比較では、疑問が残る。
この手の原材料で読みがいがあるのはお菓子のそれだ。私の場合、娘に卵アレルギーがあったことがあり、一時期ずいぶん注意して読んでいたのだが、さっき買ったチョコレートのパッケージには、実に詳細に材料が書き込まれている。
●原材料名:砂糖、植物油脂、全粉乳、乳糖、カカオマス、ココアバター、トレハロース、乾燥いちご、ホエイパウダー、チーズパウダー、クリームパウダー、濃縮りんご果汁、ミルクカルシウム、デキストリン、脱脂粉乳、乳化剤(大豆を含む)、香料、カゼインナトリウム、紅麹色素、酸味料
書き写すと汗が出てくるほどだが、一枚のいちごチョコレートを作るにはこれだけの材料が必要だということで、なるほど緑茶は比較的、余計なことをしていない。それでも、ある製品に対して、どこまで原材料に還元し、書かないといけないのかは疑問である。たとえば「チーズパウダーの原材料はなにか」「脱脂粉乳は牛乳からできているのではないか」ということである。工場が「チーズパウダー」の状態で仕入れていたらそれでよいのだろうか。まさか「牛肉」に対して牛さんが食べた飼料のことまで書け、ということにはならないと思う。ただ、これが行くところまで行くと、かえって単純になる。
●原材料名:酸素、炭素、水素、窒素、硫黄、塩素、ナトリウム、カリウム、カルシウム
とか、あるいは、
●原材料名:超新星
なにか、待ち合わせに遅れて「今まで何をしていたのか」と聞かれて「ずっと妻の実家で会社の手伝いをしていましたが去年からは営業所をまかされるようになりまして」と答えるような話だが、まあ、私が知らないだけで、原材料を書くにあたって守らねばならない、何らかの基準や規格はあるのであって、それに沿って書けばよいだけのことかもしれないし、アレルギーなどの理由で原材料が心配な人と、あとは保存料などの添加物を気にする人の役に立てばそれでよいので、最後のところは常識的な判断がなされるものなのかもしれない。
と、冷静なことを書くから私はいつまでたってもだめなのだが、さてここにお弁当がある。このお弁当を作ったのは、特に名を伏す「M田よろずや」というお弁当屋さんで、ここは、
「勝カレー」(たぶんカツカレー)
「心は燃えそば」(たぶん焼きそば)
「ラブレタース巻」(何かがレタスで巻いてあると思われる)
「努力のかたまり」(よくわからない)
などのネーミングの弁当で知られるお店である(「生き活き弁当の店」と書いてある)。今回紹介したいのはこのお弁当の原材料名なのであるが、そうなのだ。ちょっと聞いてくださいよ奥さん。私が買ったのは「南蛮弁当」という、要するに鶏肉を揚げて甘酢に漬けた、南蛮漬けが入っているお弁当である。そのふたに貼ってあるシールに、原材料名が書かれている。
「原材料名:白めし」
のっけからこれである。まさに還元主義への挑戦ではないだろうか。よくわからないが、普通ここには「米」とか「白米」と書くべきなのではないか。お弁当屋さんが自分のところで米を炊かないで買ってきているので材料としては「白めし」です、という主張もあるかと思うが、白飯と書かないところが挑戦的にも思える。原材料名は続く。
「鶏肉、小麦、卵」
このあたりは、たぶん鶏南蛮を作るための材料であろう。小麦や卵に敏感な人はいるので、ここは納得できる。が、次を読むと、実はこれさえも、周到に計算された記述なのではないかという疑いが残る。大惨事を描く映画の導入部には、平和な日常があるものなのだ。そう、次はこれなのだ。
「サラダ」
キタ、と叫ばれたい。サラダだ。原材料はサラダだ。サラダだだ。確かに入っているのだからサラダはいいとして、いったいぜんたい、何のサラダだ。サラダは材料ではなくて、料理の名前ではないのか。サラダが料理なのかどうかという哲学的な部分に踏み込んでの議論には応えられないが、何のどういうサラダかは書かなくていいのだろうか。M田よろずやの計算高いところは、原材料名リストのこの次に無難に「大豆」を持ってくるところであるが、その次で舞台は暗転する。
「野菜」
ぎゃー。なんかもう。なんかもう。いろいろと、いろいろと言いたいが、なんかもう。
「煮物」
ぐ。
「調味料(アミノ酸等)」
が、あ、いや、これはいいのだ。たぶん「味の素」のことだろう。ああよかった。
サラダと野菜と煮物が原材料の弁当。読者諸氏は話をおもしろくするために私がでっちあげたのだと考えられるかもしれないのだが、これは誓って真実である。あまり表沙汰にすると何かお弁当屋さんに後難があるかもしれず、それは本意ではないので書かないことにするのだが、還元主義への抗議、あるいは挑戦、そういったものをここに感じ、私は涙を流しながらお弁当を食べたのであった。400円で腹一杯。M田よろずや偉い。
ところで、次の日私が食べたのは、やはり同じ店の「鶏天弁当」であった。それには原材料名として、こうあった。
「原材料名:白めし・鶏肉・小麦・卵・調味料(アミノ酸等)・保存料(ソルビン酸K)・甘味料(サッカリンNa)」
以上だが、ところで、一緒に入っていた、キャベツの千切りとかポテトサラダとか煮物とかスパゲティを、これからどうやって作ったのか、疑問を残しつつお弁当屋さんは去ってゆくのです。