クールな夏の終わりに

 長い海外生活を終え、母国に帰った男。空港で缶コーヒーを一本買って、まず、そのプルタブのところに違和感を覚える。よくある、つまみを起こすと上蓋の一部が内側に折り込まれる方式ではなく、缶本体から蓋を引っ張って外してしまう、古い形式なのだ。これでは飲んだ後、缶とプルタブが別々のゴミになってしまう。男は母国の現状に軽い失望感を覚える。まだこんなのを使っているなんて、こんなことだから……

……だから日本は駄目なんだ、というのは、私が小学生か中学生くらいのときに読んだまんがの一シーンである(北条司の「シティハンター」だと思う)。確かに、バス停やなにかで地面にプルタブが散らばっているのはあの頃しばしば出会うありきたりの光景だったので、そうだよなあ、ちっとも変わらないなあ日本は駄目だなあ、と共感するところがあった。ところが、それからほどなく、感覚的にはほんの数年で、プルタブが外れる方式の缶は市場から駆逐されてしまったように記憶している。結局、日本人の意識がどう、産業構造がどう、というような問題ではなく、飲料メーカー(あるいは缶メーカーか)の生産体制が整うまでに要する時間の問題だったのかもしれない。

 あの外れるプルタブに関しては「集めると車椅子が寄付される」という話があったりして、実際に私の祖母が集めていたことがあった。「どこに送るのか」「いくつ集めればよいのか」「うちに車椅子が来ても困るが、では実際にはどこに贈られるのか」という話抜きでやみくもに集めていたところを見ると、伝わってきたのはやはり都市伝説めいたフィクションだったろうと思う。ただ、調べてみると実際にそういう慈善活動をしている団体もあるのだそうで、ややこしい話になっている。

 集めるものが缶本体ではなくプルタブなのは、金属の回収上の効率云々ではなくて、あのプルタブが道ばたに散らばっているのを、当時はみんな問題と感じていて、だから「あれだけを集める」という話が、都市伝説としてもあまり突飛に思えなかったのだろうと思う。とまれかくまれ、これも遠い昔の話になりおおせてしまった。バス停の風景からプルタブが消滅し、広く共有された罪悪感という原動力が失われた以上、今の缶からプルタブだけ外して集めるべしという「伝説」は、できたとしても流行はしないだろう。道徳心を技術が補った典型例のような気もする。

 このプルタブに似た話で、今も現役なのは「ホチキスの針」である。同じような小さな「資源」だが、こちらのほうも、針に使われた金属資源がもったいないというよりは、書類を古紙として再生に出す場合、どうも、あの針が邪魔になるのではと思えてならないのだ。ところが、実際にはあの程度の金属が混入しても古紙再生には問題がない(取り除く工程がちゃんとある)のだそうで、考えてみれば古雑誌は確かにホチキスの親玉みたいなので綴じられたまま、資源ごみとして引き取ってもらっている。古雑誌が再生できるなら針付きの書類も再生できる道理である。

 しかし、そんな理屈が簡単に浸透するなら都市伝説など生まれはしない。一時期「古紙として再生する書類からはホチキスの針を抜かなければならない」というルールが職場にあったことが原因で、私の会社の机の引き出しの一番上には今も「ホチキスの針入れ」というものが巣食っている。さすがにもう、あたしんどいもない、再生に出す書類からわざわざ針を抜いたりはしなくなったが、オートフィーダーを使ってコピーを取るとき、もらった書類から不要なページを除いて綴じなおすとき、ゴミとして出るホチキスの針は、なんとなく、この箱の中に捨てるようにしている。

 箱は折り紙で折った、一辺が四センチくらいの小さなものだが、集めるモノがモノなので、めったなことではいっぱいにはならない。いっぱいになったら金属ゴミとして回収してもらおうと思っているが、実は働き始めて今まで、五年間で一度も捨てに行ったことがないのだ。だから、環境にいいのだかどうかもよくわからないところである。今のところ、私がこれを集めたりせずに裏庭に穴を掘って埋める習慣にしていたとしても、環境保護という観点においてなんら変わりはないと思われる。

 そして、もっと言えば、長年手間ひまかけてあつめたこの針は、量としてはごく少ないのだ。ホッチキス針十年分のかわりに、ちょっと国道沿いに出かけて空き缶を一つ拾ってくれば、同じだけの貢献を社会に対してしたことになるのではないか。深く考えるほど、無駄に思えて仕方がない。だからといって針箱の中の針をいきなり軒下に向けてばら撒いたりはしないのだが、プルタブを集めていた人を笑う資格なんてないと思える。

 それで、ここでクールビズである。話があちこち飛んで申し訳ないが、あとでうまく統一理論によって説明される予定なので、ちょっと聞いて欲しい。なにしろ国を挙げてクールビズなので、近頃はもう、クーラーをがんがんつけるというのは王侯貴族にも許されない贅沢とされていて、そのためにはネクタイもスーツの上着もいりません、ということになった。政府主導でのこういう運動が実を結んだ試しがないと思われてならないのだが、どうも、けっこううまく浸透している印象を受ける。とてもめずらしく、よいことである。

 しかし、よく考えてみると、クールビズのような運動は、もともと失敗に終わる可能性が非常に低い。というのも、これは完璧に実施しないと意味がない、という類のものではないからである。

 たとえば、「クールビズ」を百社が実施すれば、それは十社が実施した状態よりも、環境保護の面からみてよいことである。十社でも、一社しか実施しなかった場合に比べればマシだ。一社でも、ゼロ社よりはよい。本当はたった一社だけが採用したのではダメで、最低でも、政府の広報に使われたお金や資源にくらべて効果が多い必要があるが、いったんそれを超えれば(実際、採算レベルはたいして高くないと思われる)、あとは「儲け」ばかりである。

 何にでも反対するひとはいるので、ではここにクールビズ断固反対という人がいたとする。その人を説得するのは容易ではないだろうが、この場合、そういう人に無理を言って我慢してもらう必要なんかなく、極端な話、ほうっておけばよい。東京のどこかに会員制秘密クラブのようなところがあって、そこではクーラーが15度くらいの設定温度でキンキンとかけられており、スーツとネクタイをぴしっと決めた男女が涼しく働いている。そんなことがあっても、構わないのだ。それで運動自体無意味になるわけではないのである。その一方で、いくつかの大企業でねっとりと28度に設定されていれば、やらないよりはずっとよいのだ。

 ノーネクタイでは得意先に失礼だし、開襟シャツで面接を受けたら採用されない。文化はなかなか変わらない。しかし、それでもよい。たまに思いついたときだけやってもよい。やらないよりはよいのであり、やればやっただけ、それがエネルギー節約量になって、推進者にとっての勝利の糧となるのだ。この手の試みでは珍しく、獣人博士の言葉を借りると「Aシステム」をなしていると言ってもよい。

 しかし、実際の話、クールビズは入り口にすぎない。もっとも恐れるべきは、というのはこれが「Aシステム」から「Dシステム」に変わるのは、冷房我慢したんだからずいぶん頑張ったこれで地球はよし、と思ってしまうことである。地球環境を守るためにはもっと本質的な活動がいくらもあって「冷房がまん」はその入り口でなければならない。その意味でも、あんまり頑張って「クールビズを採用していない企業は」とか「どうしてコンビニは冷房設定が18度か」というふうに、追いつめない方がよい気がする。こんなことはたいしたことではない、誰でもやっていることで特筆すべきことではない、というふうを装うべきなのだ。たぶん。

 そしてそういう意味において、プルタブや、ホチキスの針は、似た性質を持つ「環境保護活動」だと思う。ちまちま集めることで、なにかを成し遂げた気持ちになっていてはいけないのだ。いけないのである。いけないのだが、ああ、以上のような警告がかんたんに腑に落ちるなら都市伝説など出る幕はないのである。私は今日も三本のホチキス針を回収し、三分の一くらいまでたまっている箱に加えた。この箱を見ていると、地球はまだまだ安泰だという気がしてくるから不思議である。


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