一方ロシアも

 対応に出た職員は、今着ているようなスーツ姿より作業着のほうが似合いそうな、いかにも現場叩き上げといった感じの初老の男性だった。おそらく彼が本来属しているであろう場所、組立工場やCADシステムの前では有能なのかもしれないが、今こうして応接室のソファに座っていると、いかにも場違いに、そしていささか疲れているようにも見える。私が彼に質問を伝えると、何のしぐさか、両手を軽く持ち上げて、すぐに下ろし、それから語り始めた。

「それは『the Fisher Space Pen』と呼ばれています」
 まず、こちらの出方を探るような、かすかであいまいな笑みを浮かべて彼は言った。私がうながすと、先を続ける。
「NASAのミッションも初めの方は、宇宙飛行士は鉛筆を使っていました」
 あっけにとられた顔をしたに違いない私を見て、しかし彼の表情が少しも変化しなかったのは、あるいはこういう反応には慣れているからだろうか。
「そのあと、たとえばジェミニ計画では、NASAはシャープペンシルを購入して使うことにしています。1965年、ヒューストンのTycam Engineering Manufacturing社からです。定価購入の契約で、価格は34セット買って4,385ドル50セントでした。一本あたり128ドル89セントということになります」
 彼は、すらすらと数字を述べると、ひとつ頷いて続けた。
「これは当時、ちょっと、ええと、物議をかもしまして。たくさんの人が、とんでもなく高いと」
 たくさんの人が、のところに、ちょっとした軽蔑が含まれていたように私には思えた。ロケットそのものや他の装備品に比べると、いくら高くてもシャープペンシル、確かにさしたる問題ではないのかもしれない。
「それで、NASAは直ちに宇宙飛行士の筆記用具をもっと安いものに戻したわけです」
 つまり、鉛筆ということなのだろう。

「同じ頃、Fisher Pen社のPaul C. Fisherは、宇宙という独特の環境でうまく使えるボールペンを開発していました。このペンは、圧力をかけたインクカートリッジを使用していて、無重力環境や水中などの液体の中、それに華氏マイナス50度から400度(だいたい−50℃〜200℃)の温度下で使うことができました」
 次に私が何を言うか、すでに分かっていると言いたげに、彼は続ける。
「ああ、Fisherはこの宇宙ペンを、NASAの資金を得て開発したのではありません」
 なにがああだろう、と私は少しおかしかった。
「伝えられるところでは、Fisher Pen社は、およそ百万ドルを開発に投資した、ということになっています。これは会社自身の資金でまかなわれ、その代わり、特許取得によって市場を独占したのです」
 アメリカ的ですね、と言った私に、彼はかるくうなずいて、にこっと笑った。それは、私が彼の顔に見た、初めてのあいまいでない笑みだった。

「Fisherは1965年からにNASAにこのボールペンを売り込んでいましたが、さっきの議論の影響もあり、NASAは採用には慎重でした。1967年にやっと厳しいテストが終わり、NASAはアポロ計画の宇宙飛行士用装備としてこのペンを採用したのです」
 それから、彼は鼻をぴくりと動かして、
「アポロ計画ではFisherから約400本のペンが購入され、その価格は一本6ドルだったと、メディアは報じていますよ」
と言った。

「ソビエト連邦も」
 彼は続ける。おかしなもので、私はいつのまにか「ロシア」という名前に慣れていて、「ソビエト連邦」という名前に出会うと、不思議な感じがする。この文脈で出てくると、米ソの宇宙開発競争の時代を思い出すのだ。
「ソビエト連邦も、このボールペンを購入しています。1969年2月に、ペンを100本、インクカートリッジを1,000個。これはソユーズで使われました。それまでは、ソ連の宇宙飛行士はグリースペンシル(訳註:顔料と油脂でできた鉛筆)を軌道上での筆記に使っていました」
 私は彼が、伝統に従って、ソ連の宇宙飛行士のことを「コズモノート」と呼び、アメリカの宇宙飛行士(アストロノート)と区別してみせたことに気が付いた。
「それ以来、アメリカ人の宇宙飛行士も、ソ連、ロシアの宇宙飛行士も、Fisherのペンを使っていますよ」

「Fisherは今も、この宇宙ペンを『月に行った筆記用具』という触れ込みで売り込んでいるようです」
そのあと、彼はFisher Pen社のその後について少し話したあと、軽くため息をついて、言った。
「それで、次は何をお聞きになりたいですか」
 私は、口を開こうとしたが、彼はかまわず続けた。そこには今まで穏やかに話をしていた技師の姿はなかった。まるで灰が取り除かれ、中から赤く輝く石炭が現れたように、私は熱いものを感じた。
「月面の異星人の遺跡のことですか。火星の人面岩のこととか。ハイパースペースについて質問されたいですか。それともフォースのこととか。ヴェリコフスキーについてもお答えできますよ」
 私は慌てて彼を遮り、礼もそこそこに、応接室を退出した。あまり慌てていたので、私が本当に聞きたかったことは聞けずじまいに終わったのだが、これを聞くと、彼は本当に疲れきってしまっただろうか。あるいは、同じような態度で、淡々と説明してくれただろうか。

 つまり、アポロ計画で本当に人類は月に行ったのですか、ということをである。


※今回の内容は、NASAのページの「Fisher Space Pen」を元にしています。ただし、「超訳」および解釈にまつわる責任はすべて大西に帰します。
※大西本人はアポロ計画に関してエキセントリックな感想をもっているわけではありません。念の為。
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