大学時代、私がどういう学生だったかを思い出すと今も顔から汗が出る。つまり、ろくなものではなかった。具体的には書かないが、思い出すだにあれはまずかった。その、長い、覚めない夢を見つづけていたかのようなあの時代の中、果たして私にとって「そのとき」がどうであったかというのを、どうもよく思い出せないのはそのせいだろうか。まじめに授業に出るだけは出ていたので、聞き逃したということはないだろう。たぶん、さしたるドラマもなしに、さりげなく出てきたのではないか。
つまり、これである。私はくさっても物理学の学生だったので、「相対性理論」というものを、卒業のための必須単位で学んだはずで、そして、その授業のどこかで、この有名な公式が出てこなければおかしい。ところが、どうしたことか、これに対してどういう説明があったか、担当教官がどうコメントしたか、まったく思い出せないのだ。先生が持参したCDラジカセから「ツァラトゥストラはかく語りき」が大音量で鳴らされてはいなかったのは確かだ。
この式、E=mc2は、前世紀ほどのことはないと思うが、あまりに人口に膾炙しているので、同じ文中に何度も書くと頭が良さそうに見えないという欠点がある。ためしに「『E=mc2』Tシャツ」というものを着ている自分の姿を想像して欲しいが、おおむねそんな感じだ。ところが、今回の文章では意図からして何度もこれが出てくるはずで、以下、省略して「エ」と書くなどするとよいかもしれない。いや、べつに頭が良さそうに見られたいわけではないのだけれども。その証拠に、ええと、さあ、今回はエについてのお話だよ〜ん。ほげほげー。
周到な気配りがすっかり台無しになったところで、さて、基本的な知識を確認しておくが、エが意味するのは、質量は実はエネルギーと等価であり、光速度cの二乗を換算定数として、互いに交換が可能である、ということである。このことが最も端的に現れるのは核反応の場合で、これは反応前と後で失われた質量がエネルギーの形で放出される。反応に参加した原子核の質量がある程度精密に測定できるのだが、反応前の原子核(たとえば水素)と反応後の原子核(たとえばヘリウム)を比較すると、水素4個よりヘリウムのほうが若干軽い。これが太陽の中で起こっている核融合反応(水素4個からヘリウムができる)のエネルギーがどこからやってくるかの説明となっている。
なにぶん光速度cは巨大な数字なので、その二乗が掛かっていると、エの両辺には著しい非対称が生じる。つまり、
ということだが、そういうことなので、エはたいてい「こんなちょっぴりの質量がこんなにたくさんのエネルギーに。わあすごい」という文脈で紹介されることになるのだ。
なんだかミもフタもない、一部自分の首を絞めるようなことを書いているが、エについて何か書こうと思った場合、1グラムの物質があって、これを完全にエネルギーに変換できたら、という計算のクラクラするような魅力に抗するのは難しい。変換後のエネルギーがTNT火薬何トン分かとか、そんなふうに記述されることが多いのは、その一つの現れではないだろうか。だって格好いいじゃないかTNT。どかーんじゃないかどかーんじゃないか。
ところが、先だって読んだこの手の記述で、やや冷静に、世帯の電力消費に換算したものがあって、TNTでは見逃されがちな疑問を感じたことがあった。「1グラムの物質をエネルギーに変換すると、5 000世帯の一年ぶんのエネルギーになる」というのだが、これはものすごいことなのだろうか。どうなのだろう。
少し検算してみよう。エを使うと、1gの物質は、90 000 000 000 000ジュールのエネルギーに相当することがわかる。いや、もちろんこんな突拍子もない数字を出されてもよくわからないが、1ジュールというのは1ワットかける1秒ということなので、100ワットの電球を900 000 000 000秒(≒三万年)点けておける、ということである。まだよくはわからないけれども、これを世帯数5 000で割ると6年になるので、上の計算では1世帯あたり1年間通して600ワットくらい使うと考えているようである。つまり、600ワット×5 000世帯×1年が、1グラムに相当するわけだ。一ヶ月に直すと400キロワットアワーあまり。うちの先月の消費電力は300キロワットアワーだったので、ちょっと多めの見積もりなのかもしれない(または、アメリカではそうなのかも)。
しかし、そのような細かいことはともかくとして、5 000世帯も1年も、多いようで少ない。水戸市(人口26万人)の世帯数が約10万らしいので、水戸のごとき地方の小都市一つにつき、一年に20グラムもの質量を電気エネルギーとして消費していることになる。これはけっこう、たいしたものではないだろうか。エを使うとき、いつも感じるのは「ちょっぴりの質量が大エネルギーに」かもしれないが、この質量は、実はバカにならないのでは。
エの主張するところ、質量がエネルギーであるというのは、つまり、エネルギーを使うともとの物質が軽くなる、ということである。上に挙げた、原子核の例がドラマチックで分かりやすいが、原理的には石油でも木材でもゼンマイでもなんでも同じことのはずで、あるところからエネルギーを取り出して使った以上、使ったエネルギーぶん、エネルギー源が軽くなるのだ。そして、その使ったエネルギーがどうなったかと考えてみると、結局は熱になって、地球から宇宙空間に放出されて失われるのだろう。地球温暖化とは関係なく、そうなっていないとおかしい。
我々は、石油を使うと二酸化炭素のことを気にするし、核燃料を使うと廃棄物のことを気にする。しかし、やや高飛車に言ってしまえば、これらは原理的にどのようにでもなる。しかし、エネルギーを使い、熱の形で放射することで、全体として地球が軽くなるのはいかんともしがたい。エは基本法則であるし、もう一方の壁は熱力学の第二法則というこれまた基本法則なので、原理的にこれを覆すことはできないのだ。
となると、あな恐ろしや、限りある地球が軽くなってゆくのである。ウランなどの原子核の質量(の一部)と石油の質量(の一部)として地球に蓄えられていた質量を、我々はエネルギーのかたちで解放しつづけているわけだ。上の計算をそのまま使えば、日本全体では1年につき10キログラムである。毎年10キロ。これは電気だけなので、おそらくは実際にはこの数倍以上の質量が、続々と日本から宇宙へと失われてゆくという、そういうことだ。すねをかじられてでもいるかのように、比喩としてではなく、地球が軽くなってゆく。
と、待てよ10キロである。よく考えてみると、ロケットの打ち上げ、隕石の落下、大気上層部から逃げてゆく空気の分子、といった要因によって、質量はもっと大幅に上下しているはずだ。それに、エネルギーということで言えば、入ってくる太陽光がある。これは1平方メートルあたり1.37キロワットで、だから日本列島ほどの面積(面積378 000平方キロメートル)に換算すると、1年で2×1022ジュールである。エを使うと、200キログラムになる。大部分はそのまま反射されるにせよ、これだけの「質量」が毎年降り注いでいると考えることもできるのだ。
騒いで申し訳なかったが、なんというか、やっぱり質量はたいしたことなく、エネルギーはすごいので、いくらエネルギーを使ってもその意味では大丈夫という、そういうありきたりな結論になるのかもしれない。率直に言って、とても残念である。書き始めたときにはすごい発見をしたような気がしていたのだが。えーと、「ツァラトゥストラはかく語りき」のテープを止めて、すごすごと退場したいと思う。