対応に出た職員は、今着ているような暗めのスーツ姿がよく似合った、この路一筋といった感じの初老の男性だった。彼が本来属しているであろう場所(ここ)が心底気に入っているように見え、年齢相応の疲れたような感じはどこにもない。今こうして、窓口の隅にパーティションで仮設された小部屋の、ぎしぎしときしむパイプ椅子に座らされ、あとから入ってきた彼に見上げるような形で接すると、やはり逃れる道はないのではないか、ここまで来たが結局無駄だったのではないか、と思わざるを得ない。とりあえずといった感じで私が会釈をすると、彼は同じように意味のない会釈を返し、椅子をきいと言わせながら席について、それから、何のしぐさか、両手を軽く持ち上げてすぐに下ろし、語り始めた。
「このようなところで、申し訳ありません。幸福税に対する説明を求められているとのことで、実は、ここはそのために作った部屋なのです」
そう、私はそのために来たのだった。私は、さっきの段落に感じた既視感(半月前にも見たような)が急速に薄れていくのを感じながら、あたりを見回す。確かに、応接室とはとても言いがたい、急ごしらえの小部屋だ。彼は構わず続けた。
「もちろん、これまでは我々も、あまりこうした個別説明をしてこなかったのですが、幸福税はどうも、国民に広く理解をいただいていないようで、また税の性質上、どうしてもプライバシーにかかわることになりますから、こうして個室を作って、説明を差し上げることになっています」
決り文句なのか、彼はそこまで一気に言った。言葉とは裏腹に、彼の態度にも、そして実用一点張りの椅子にも机にも、来署者を歓迎する様子は見えない。もっとも、もとより税務署は他人を歓迎するところではない。
「幸福税のお話の前に、積算感情計についてまずご説明差し上げることになっています。すいません、こちらのパンフレットをご覧いただけますか。押すと別のウィンドウが開きますので」
携帯電話などで閲覧している人の立場はどうなるのかな、やっぱり行きつもどりつするのかなと思いながら、私は別ウィンドウの記事を読んだ。ふむ、あらみたま号。
私が読んでいる間にも、彼は話し続ける。
「これは感情計の黎明期の、非常に初歩的な製品の例です。最初はこのようにパーティーグッズとして登場した感情計ですが、もちろんこの技術はここで終わりませんでした。他人の感情を測定する感情計は進歩を続け、精度を増し、人間工学上の革命的な技術として広く認知されるに至りました。今では感情計は医学分野など社会にとってなくてはならない装置になっています」
「え、ええ、はい、そうですね」
私は曖昧にうなずいた。感情計か。はじめはこの、なんとか科学という会社が作った怪しげな装置だった。今では大手の電機メーカー、医療機器メーカーはほとんど手がけていて、感情計と、その威力については誰でも知っている。ただ、その原理となると、私はあやふやなことしか知らなかった。確かCTやらPETとか、そういったものに似ていたはずだが。
「法的にも、感情計は信頼の置ける基準であると認められるようになりました。具体的には、ある人が事故や事件に巻き込まれた場合、その感情的な被害、苦痛を測定し、慰謝料の算出の基準とするようになってきているのです」
彼は、手元のノートを一枚めくった。そこに何が書いてあるのか、こちらからはよく見えない。
「いまある人が、たとえばその人の持っている携帯電話を他人に壊されたとして、そのことに対して感じる気持ちは、人により状況により、さまざまでしょう。とりかえしのつかないものを失ったと、想像を絶する悲しみに襲われる人もいるでしょうし、まったく何の痛痒も感じない、むしろ買い換える踏ん切りがついてよかったと嬉しがる人だっているかもしれません。これまでの法律は、このあまりにも立場の異なる二人に同じだけの賠償金額を提示するに過ぎませんでした。ところがここに感情計が登場して」
どうしたのか、彼は手元のノートに目を落として、しばらく考え込んだので、私は心ならずも助け舟を出した。
「実際の悲しみを測定できるようになったと」
「はいそうです」
なぜか彼は嬉しそうだった。
「失った財産的価値とほとんど同じような客観的な基準を、今や我々人類は手に入れました。これを取り入れないで慰謝料を算出するのは、もはや非常識なことになりつつあります。とにかく、判例はそうなっています」
「ええ」
私は相槌を打つ。
「もう一つ、実用上、これが慰謝料算出や課税などに適用できるようになったのは、積算感情計の発明によるところが大きいでしょう。積算感情計というのは、対象者の、数年ほどの期間の幸福を計測できるものです。リアルタイムでそのときの感情を計測する感情計と異なり、積算感情計は、対象者の記憶をスキャンすることによって、過去の感情を計測することができます。実際には当人の『記憶の中の当時の感情』ですが、まあ、実際問題として人が傷つき苦しみ、あるいは思い出して楽しむことができるのは感情そのものではなく、感情の記憶、ですしね」
私の心のどこかが、ざわ、と波立つのを感じた。現状、読み取れるのは感情の方向性やその強さ程度のものとはいえ、「記憶をスキャンする」と言われると良い気はしない。
「そこで、幸福税です。これは一昨年の国会で可決され、今年から導入されたものです」
「国民はみな、働いて生活の糧を手に入れています。これまでの所得税の枠組みは、所得に応じた税負担を、ということにつきます。累進課税という、より多く所得のある人からより多く税金をとる仕組みですとか、あるいは、所得を得るのに必要だったお金を税負担の対象となる所得から控除するという仕組みもありますが、基本的には、稼いだだけ支払う、というのが理念です」
私は言葉を挟むタイミングをはかっていた。まさに幸福税に関して、異議を唱えるためにここに来ているのだから。だが、まだだ。
「ところが、感情計が普及するに連れ、それではいけないのではないか、ということが議論されはじめました」
彼はプラスチックのファイルからカラーのパンフレットを一枚取り出し、私に見えるように広げて見せた。
「同じだけの仕事をして、同じだけの対価を得た二人がいたとします。しかし、その仕事が苦しいものであるか、楽しいものであるかは、人によって異なるに違いありません。営業職なら、それが楽しくて天職のように思っている人もいれば、苦痛でしかたがない人もいるでしょう。それなのに、どうして同じだけの税金を支払うのでしょうか。苦しんで得た給与と楽をして得た給与は、税率が異なって当然ではないでしょうか」
パンフレットの中で、重い荷物を大八車に載せて引いている人と、パソコンの前でコーヒーを飲みながらマウスを操作している人の絵が描いてある。パソコンの人にフキダシがついて、その中に音符のマークが書き込んであったりした。いけすかない。
「だからといって、これまではその両者の不平等はどうしようもありませんでした。ある人の感じる苦痛を客観的に測定できる方法などなかったのですから当然です。ところが、それができてしまった。ある人は仕事を楽しんでいるが、他の人はどうしてもそれができない。そういう不平等が明らかになってしまった」
私は芝居がかった彼の態度に、ますますうさんくささを募らせていた。しかし、そういう目で見ている私のことを気にするふうもなく、彼は続ける。
「そこで、仕事の幸福度に応じた税金、幸福税というものが導入されたのです。みなが平等に幸福と不幸を感じられる、そういう世の中に少しでも近づけるためです。苦しい仕事を強いられた人に対して、たまたま自分にあった仕事を見つけられた人がいくらかの負担をし、助け合う、そういう仕組みです」
「さてそこで、あなたの仕事です」
彼は、書類挟みからファイルを取り出して広げた。そこには私の仕事がスクラップしてあった。週刊誌の切り抜きで、私が書いた記事が掲載されている。私は、無意識のうちに、そこから目をそらしている自分に気がついた。恥ずかしかったからだ。
「これは、去年のペナントレースの少し前に世に出たものですね。あなたは、プロ野球に詳しい専門家として、ペナントの行方について記事を書いておられます。こちらのチームが戦力が充実しているが、こちらのチームもまとまりよく仕上がっている。特にこちらのチームは連覇する可能性が高いと」
彼は、秘密ですよ、とでもいうかのように、ここで声を落として、言った。
「はずれましたね」
「それは、確かに…しかし…」
「いえ、べつに記事が当を得ていたかどうか、それは関係ないのです。ただ、どうやら、あなたはこの原稿を書かれたとき、ひどく楽しまれていたらしい。申告のとき、受けていただいた検査の結果、積算感情計にそう出ました。あなたがレクリエーションとして、テレビを観たり、レジャーを楽しまれているときに楽しいのはどうでもよいということになっています。ただ、仕事中に楽しまれるのはよくない。楽しんでした仕事で、得られた対価に対して、税金をかける。それが幸福税のしくみなのですから」
「確かに、私は文章を書くことを楽しんでいるかもしれません。しかし、そうでなければ文章なんて書けないでしょう。そういうものではありませんか」
「ええ、しかしこうも考えられます。普通、記事を書くにはさまざまな取材が必要です。面倒な調べものや取材旅行、困難なインタビューや状況分析を経て、それを一本の記事にまとめるのは、一般に苦痛が伴うものです。産みの苦しみというものもあるでしょうし、扇動的な記事を世に出すことで起こる影響への懸念も、苦痛に分類され、幸福から控除の対象になります。ところが、どうやらあなたの、この記事の場合、そういう苦痛は一切なかったらしい。失礼ですが、あなたはご自分の中にある材料だけを使って、楽をして書かれたようなのです」
私は頭に血が上るのを感じた。どうしてこのような男に、私の仕事を判断されねばならないのだろう。ところがそこで、ふと思い出したのである。まさに、そのとおりではなかったろうか。私は自分の予測に酔っていたが、それはつまり、仕事が面白かったということなのでは。私は深呼吸を一つして、言った。
「それで…どうなります」
「ですから、修正申告をしていただきます。この仕事のギャランティに対して、幸福税がかかります。収入の二十パーセントを収めていただくことになると思います」
彼は、積算感情計の計測結果を記した分厚いプリントアウトを取り出して、細かい説明を始めた。私はほとんど聞いていなかった。
「あなた…今、ずいぶん楽しそうですね。違いますか」
長い説明のあと、観念した私は、一旦家に帰って戦略を練り直すことにして、礼を述べて立ち上がった。そのとき、捨て台詞のつもりで、そう言ったのだった。驚くべきことに、彼は、少し笑ったように見えた。
「ええ、残念ながら。私の給料もだいぶ、幸福税に持ってゆかれるでしょう。だから、私を助けると思って、素直に修正申告に応じていただけませんか。あなたが粘れば粘るほど、私の仕事は楽しいものとなって、そのぶん、私の収入が減ってしまうのです。お願いしますよ」
私は混乱した。あくまで戦うか、素直に幸福税を納めるのか、この憎らしい徴税吏を不幸にさせるには本当はどちらがよいのだろう。とにかく、面倒な時代がやってきたのは間違いなかった。