少子化に笑みを

 NHKは先ごろ「新生プラン」という再建計画を発表し、その中で、大きな問題となっている受信料の不払い対策として、簡易裁判所を通じた督促などの法的な措置を取ることを明らかにした。

 などとニュースを書くと、なにか自分が時代について行っているかのようで、正直言ってとてもくすぐったい。なんだかまるでブログみたいではないか。しかも、この上に、

 おそらく集金の現場の声として、不払いの理由として「受信料支払いの不公平感」、つまりなんだかんだ理由を挙げて支払わない人がいるということへの不満を挙げる人が相当多く、そういう人は要するに「自分だけが取られる」のが気に入らない。他はともかく、真実そういう不公平感をもつ人に対しての真摯な対応としては「よりよい番組作り」はもちろん、「リストラ」も「不祥事の撲滅」もましてや「トップの辞任」も筋違いでしかなく、やはりみんなに公平に負担してもらう、逃げ得というのを許さないという態度が必要である。「強制的な徴収」はそういう観点から求められている方針なのではないか。

……等々と逆説的な意見を書き添えておくと、さらにブログっぽくて偉くなった気がする。コメントをお寄せください。トラバなんとかも送ってください。できれば書留で。

 などと、トラックバックのなんたるかもよく知らないのに書いてはいけないが、是非はともかくとして、受信料に関する議論をするとき、抜け落ちやすいのはやはりこのような「ちゃっかり不払い」の人の意見だろう。番組内容や不祥事への対応として、信念を持って不払いを決めた人などとはまったく別個に、「私はNHKも見てますし内容にも組織にも不満は特にありませんが、出すのは懐から手を出すのも嫌です」という人がいたとすると、この人には広く表明したい意見などないので、むしろできるだけうまく隠れていたいので、だからNHKや新聞に意見を寄せることなどない。目立たなくても、そういう人は実際、少なくはないと思うのだ。ちょうど、

Q:あなたは普段、アンケートによく協力するほうですか。
 1.よく協力する
 2.ときどき協力する
 3.めったに協力しない
 4.絶対に協力しない

こういうアンケートへの回答として「4」は少ないだろうな、というのに似ている。しかしこれは、アンケート嫌いな人が少ないという結果ではない。多いという結果でもないけれども。

 というところで話は変わる。二十世紀中ごろから後半にかけて書かれたSFのうち、未来を描いたものは、ほとんどもれなく「人口制限の世界」を描いていると言っていい。これは考えてみれば単純な話で(A)人口は指数的に増える傾向にある(B)地球に埋蔵された資源、産出される食料は有限か、せいぜい幾何級数的にしか増えない、のABを考え合わせると、どうしても(C)なんらかの形で人口制限をしなければならない、という未来に行き着くからである。

 人口は増える。地球は有限だ。星間移民によってこれを解決するのは難しそうだ。戦争や疫病、飢饉などで人口がガクっと減るような事態も考えられるが(そして、政治ではなく小説なのだから、実際に起こった、としてもよいわけだが)、とりあえずそういうことはなかったとしたい場合、あとは、生まれてくる数の制限、一組の夫婦が持てる子供の数を法律によって決めるとか、そういうことになる。大まかに言い切ってしまえば、おおむねこういうセンに沿ってハインラインもアシモフもクラークも話を作っていたと思う。

 私は「団塊ジュニア」世代という、同世代の人口が多い年代の端っこのほうに属していて、またそういう物語を読んで育ったので、なんだかこの人口制限の未来にはとてもリアリティがあった。むしろ、将来はきっとそういうことになると思っていたので、いざ自分が子供を持つ年齢になって、どうにもあぜんとしている。少子化が社会問題になり、世間的には子供をたくさんつくることが奨励される、そんな時代がやってくるとは思わなかったのだ。

 地球環境のことをよく考えると、子供なんか作らないほうがよい。どんな節約、涙ぐましい環境への心配りをして生活しても、子供を一人作る言い訳にはならない。当たり前の話、自分が食べる食物、吸う息吐く息、乗る化石燃料車、着る服入る風呂使う資源費やすエネルギーを全部今の半分に節約できたとして、それでも子供を作らないほうが環境にはやさしいのだ。子供はいずれまた子供を産む可能性があるからである。地球の未来から、自分の子供とその子孫(とその子孫とその子孫……)を取り除くことほど、環境にやさしいことはない。

 ただ、そもそも、どうして環境を保護するかというと、なによりそこで生きる自分の子孫(直接の子孫でなくても、文化的な子孫)のためにということなのだから、環境保護のために子供を作らないのは手段と目的が逆転していて、環境への答えにはなっていない。そうなのだが、そこで生きるのが他人の遺伝子を引き継ぐよその子供ではなく「自分の子供」であってほしいというのは、本来、自分勝手な願いであると言える。

 夫婦一組に子供は二人までという類の産児制限は、本来、そのへんの、ぶつかり合う自分勝手さの間にバランスを取るために導入されるべきものだが、実際には、いま日本では、作りたいだけ作ってよし、ということになっている。のみならず、国や自治体はそれを手厚く支援すべし、むしろそういう支援に熱心でない自治体はいかがなものか、ということになっている。

 そんな中で、あんまりおおっぴらに言えないので、だからこんなスミのほうでこっそり言うのだが、自分が子育てをする時代になって、このような風潮になったことは、おそろしくラッキーだと思っている。

 いろいろな事情で、子供を持てない人がいる。他に大切にすべきなにかがあるので子供を作れない、というような、自分で考えて選んだ場合はともかくとして、年齢などの身体的な、あるいは経済的な問題がある場合や、単に相手がいなくて、欲しいのに子供が持てない(あるいは子育てに困難を感じている)人が、日本には数多くいる。そのような人は、声を挙げるだろう。自分は欲しいのに、事情があって、子供が持てない。少子化を解決したいなら、もっと支援をと。まだ今は安心して子供を産める時代ではないと。

 そういう意見を聞くと、本当に申し訳なく、切ないくらい申し訳なく思う。私は、たまたま、今この時代に子供をもうけられる年齢で、周囲のさまざまな条件、環境もそれを許し、実際に既に2人もつくった。進行中の子育てにもさほど苦労はしておらず、むしろ毎日うひゃうひゃいいながら暮らしている。それなのに、たまたま社会が少子化に見舞われているというだけのことで、上のように本当に困っている人の影に隠れて、分不相応に楽な子育てを行わせていただいていると思うのである。

 実際、子育て環境としては、私の父母や祖父母の時代に比べて、今はおそろしく恵まれた時代のはずだ。私の初めての子が産まれた三年前と比べても、みるみる環境は整いつつある。医療や保育園などの子育て支援はもちろん、近所の駅一つ見ても、エレベーターやトイレの充実っぷりに、子育てに適した環境になりつつあると思う。未来のことは、それはまあ、わからないけれども、それを言えば未来がわかっていた時代などないのだ。

 これらはすべて、私が世間に甘えて、労せずして手に入れたものである。本当に不公正だ。こんな不公正をどうすればよいのかと思う。だからといって「少子化対策なんていらない」と私が言う資格なんかないし(本当に子供が欲しくて持てない人に失礼で、申し訳ない)、行政から私への支援はお返しします、なんてことも言わない。自分の意地だけならそう言うかもしれないが、子供に少しでも豊かな生活をというのは、私のDNAかなにかに刻んである行動の基本原理らしいので、もらえるものはもらっておきたいのだ。緊急医療なども、もっと充実して欲しい。教育はもっと素晴らしくあって欲しい。願いには限りがない。

 まあ、一般に、必要な人に支援が届かないよりは、必要でない人に支援が届くほうがいいので、年金にせよ税制にせよ、もしかしたら、世の中の物事はすべてこの通り、その資格なんか無いのに得する人がいるようにできていて、少子化に関しては、めずらしくその、得をするほうに属することができたので、戸惑っているだけなのかもしれない。たいへんにもったいなく、申し訳ないことだと思う。そして、そういう私の声が「ちゃっかり不払い」の人の声と同様、どこにも届かないというのはさらに申し訳ないことなので、やや露悪的ながら、ここに懺悔しておく次第である。まいにちしあわせです。ごめんなさい。ありがとう。


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