こんな世の中だがいまだに魔法は存在する。物理法則を覆すような大それた魔法は夢としても、世の中は要するに人と人、ある人が「魔法だ」と思えば事実上それは魔法なのであり、現実に法則が破られたかどうかは実はさほどの問題ではないのかもしれない。
つまり手品である。テレビなどで演じられているものや、実際に目の前で見せてもらうもの、レベルはさまざまあれ、鮮やかな手品を見ると、本当になにか奇跡が起こったような気分にさせられる。情報社会なので、我々もある程度「よくある手品のタネ」や「手品でよく使われる手練手管」というような知識はある。ところが、そういう意地悪な人々が集団で注視する環境下で、それでも練達の手品師は全員を見事にだましてのけるのだ。
手品はショーだが、現実の社会においてこの技術が使えないかというと、使えない理由はない気がする。何か職業倫理のようなものがあって、入門のとき、
「手品師は、コンビニでのお金のやりとりに手品を使いません」
「手品師は、駅の改札で手品を使って切符代をちょろまかしたりしません」
「手品師は、麻雀のときに手品は使いません」
「手品師は、手品を使って二つに切ったケーキの大きいほうを手に入れません」
というような宣誓をさせられる、なんてことはないと思うが、当たり前の話、鵜の目鷹の目のスレた観客よりも、午前五時のコンビニのアルバイト店員のほうがだましやすいはずである。犯罪なので試みないだけで、どの手品師にもやってできないことではないと思う。そして、ショーの現場ではなく、実生活で手品を使うとき、これはファンタジーの小説やゲームにおける「魔法」に限りなく近い存在になるのではないかと思うのである。
さて、手品のスキルはない私だが、こういう意味においてはある種、魔法的な力をふるうことができなくはないと思っている。それは「呪い」というもので、これも言わば、現代に通用する魔法の一つである。この「呪い」の原理は、相手の心の中にある二つの異なる物事を結びつけることである。魔力は必要ない。必要なのは、選ばれた言葉だけである。
とはいえ、そんなに偉そうなものではない。たとえば、昔私がまんが雑誌の投稿で読んだ呪いを見てみよう。
「私はしいたけが嫌いです。なめくじに似ているので」
どうだろう、比較的害のないものを例として選んだつもりだが、それでも、これでしいたけという食べ物を二度と口にできなくなる人がいておかしくない。ただの言葉の羅列に過ぎないが、これによって「しいたけ」となにかが読んだ人の中で結びつく。そしてある日、呪いをかけられた人がしいたけのおつゆを飲もうとした、その瞬間に突如としてまじないの言葉は現れ、被害者を痛めつけるのである。これは呪文だ。現代に生きる黒魔術である。いや、しいたけが食べられない程度のことだけれども、呪いには違いない。
しかし、別に魔力は介在していないので、限界はある。たぶん、本当に必要なことを禁じたり絶対に嫌なことをさせるような呪いはかけられないと思う。「二度と眠れなくなる」とか「全部の食べ物が食べられなくなる」というようなものだが、こういう強力な呪いは、かけられたとしてもけっこう簡単に打ち破れるものかもしれない。これに対して、効き目のあんまりない、セコい呪いの息は長い。「しいたけ」もそういえばそうだが、コオロギを見たらどうしても思い出す、という程度のものだと、たぶん私が死ぬまで続くような気がする。
ということで、化学で使う周期律表を見ていただきたい。メンデレーエフの考えた元素の表のことだが、この周期律表の「覚え方」というものがあって、これが私には一種の呪いに思えてならない。だいたいにおいて、勉強して何かを覚えるというのは、上の意味での呪いを自分にかけることだとも言えるのだが、あまりよく考えもせず、へんな覚え方をしてしまうと、周期律表を見るたびに、そのへんな覚え方に悩まされることになる。
周期律表の覚え方というと、有名なスイヘイリーベたらいうやつがあるが、実用的には、これはヨコに覚えるよりはタテに覚えた方がやや便利である。そこで高校生はタテに覚えるのだが、たとえば、周期律表の一番右は「希ガス」という安定元素で、その一つ左の列が「ハロゲン」というものだ。それぞれ、グループ毎にある程度共通した化学的性質があるのだが、このハロゲンに属する元素を「ふっくらブラジャー愛の痕」と覚えるのである。これには一種、青春の幻影のような味わいとともに、呪いのような性質があると思う。
いや待て、そうではない。こんなのは真の呪いではない。この覚え方は有名だし、「F−Cl−Br−I−At」というハロゲン元素の並びを疑問の余地なく思い出せてウマいし、ちょっとエッチで面白いので、覚えておいても恥ではないからである。私が言いたいのは、そのブラジャー元素のもう一つ左側の列、何か固有の名前があるのかどうか知らないのだが「6B族」とか「16族」と呼ばれたりする元素の覚え方だ。表を見ると、酸素(O)から始まって、硫黄(S)、セレン(Se)、テルル(Te)、ポロニウム(Po)と並んでいる。呪いは突然放たれた。高校生のとき、この周期律表を覚えていた私に、友人の一人が、こうつぶやいたのである。
「おっさんセテポ」
セテポというのは何か、なぜおっさんなのか、なんなのか。口々に問いただす私たちに、友人は答えた。まったく意味などない。単に「O−S−Se−Te−Po」の並びを読み下しただけである。しかし、セテポはなにか強烈な印象を我々に残し、そうして二十年近く経った今になっても、私は周期律表のそのあたりを見るたびに、セテポのことを思い出すのだ。これは呪いだ。決して解けない呪いだ。そうして、おそらく考え出した本人も忘れているに違いないセテポの呪いが、今も私を苦しめているのである。