ホームベースを駆け抜けろ

 これも中島らもあたりが書いていたことではないかと思うが、大阪の人間はよく、大阪対東京、という枠組で物事を捉えるのに対し、東京の人にとっては、大阪は数ある地方都市の一つに過ぎず、比較対象でもなんでもない、というものがある。仮に大阪を「京阪神地方」まで広げても、結局これは「地方都市の中で最大のもの」に過ぎない。大阪対東京のライバル関係は、大阪の言わば「片想い」なのである、とそういうふうに言われていた。

 私は、こう見えても大阪で九年も過ごした人間だが、我ながら学生だったので「大阪の経済」というものにはかなり無頓着な生活を送っていた。だからというわけではないが、これが「阪神タイガース対読売ジャイアンツ」以外のどういう事柄に、どれくらい当てはまるのかはよくわからない。しかし、そう、少なくともプロ野球に関しては、確かに上はうまく両者の関係を表している気がするのだ。阪神ファンは巨人戦となると闘志むき出しになるものだが、ジャイアンツのファンにはそこまでの意識はないのではないか。

 ここ数年の戦績に限って言うならば、この関係はそろそろ逆転してもよい。観客動員数などを根拠に、阪神を指して「新たな球界の盟主」というような言い方が、冗談交じりにせよ、少しずつされるようになってきてもいるようだ。しかし、あまり熱心でない、普通のジャイアンツファンとしては「憎き阪神、倒すべき阪神」というよりはむしろ、「ふがいない巨人、見る価値のない巨人」というふうな、内に向かう意識が主ではないかという気がする。その意味ではまだまだ「巨人は阪神のライバルだが阪神は巨人のライバルではない」という一方通行な関係が続いているように思えるのである。

 さて、私が中学生の頃、サッカーのファンが野球および野球ファンに抱いていた気持ちが、もう一つ、この片想い関係に似ていたと思う。私の身近にいたサッカーファン、具体的にはそれは運動部である「サッカー部」に所属している友人たちだったが、彼らに対して野球部の部員が抱いている気持ちは、たぶん「その他大勢の運動部員」というものではなかったろうか。ところが、サッカー部員は違った。彼らにとって野球とは、否定し、乗り越えねばならないライバルだった。旧弊たる体制を代表し、丸刈りのような精神論、ウサギ跳び等の前時代的なトレーニングで青少年を痛めつける打倒すべき競技だったのである。

 ちょっと大げさに書きすぎた気もするが、私の中学のサッカー部は、そういうわけで、野球のアンチテーゼとして存在している感があったのは確かだ。まず、サッカー部は「雨でも雪でも外で練習する」ということをウリにしていた。ちょっとした雨で中断したり中止になってしまうプロ野球に対し、サッカーの試合は雨でも雪でも開催される、というのがその理由である。このことについてサッカー部員の親御さんたちがどのような感想を抱いていたかはわからないが、少なくとも、中学校のグラウンドは、雨の多い季節、彼らのスパイクでボコボコに掘り返されている状態を常としていたのだった。迷惑千万な話である。

 さて、そんなサッカー部員が、野球部員であった私の弟に語った言葉として、私が今でも覚えているものがある。こんなのだ。

「野球なんて簡単だ。常に『ホームランを打て』というサインを出しておけばいいんじゃないか」

 あなたはどう思われるか。何か、読売ジャイアンツの数年来の強化方針に対する間接的な批判であるようにも感じるが、たぶん、言いたいことはそういうことではない。状況により、さまざまな戦略を選手全員が自主的に選択し、チームとして有機的かつ能動的に動き続けねばならないサッカーに対して、野球ではいっぺんに攻撃する選手は一人だけに限られ、状況はほとんどの場合比較的整理された状態(サッカーで言うセットプレイのような状態)にある。これは、つまりそのへんの差異を指摘する言葉だと思われる。野球においては「自由に打て」としか戦略が立てようのない状況は、確かに存在するのだ。

 しかし、一見してはこのセリフは、そんな高尚なことを言っているようには思われない。ホームランを打て、と言われて打てるなら苦労はしないわけで、野球はそこまでヘンなスポーツではないよ、と言いたくなっちゃうわけだ。弟も「そんなことはないんとちゃうか」と冷静に言い返したそうである。ただ、この「ホームランを打て」式の指示は、実は、けっこう巷間にあふれているような気もする。たとえば「営業ノルマ」のようなものはそうで、ある一ヶ月に営業部員がこなすべき仕事として「話ができた顧客の数」ではなく「契約を締結できた顧客の数」であるならば、これは、無理な場合はどうしたって無理である。四球でいいから塁に出ろ、の代わりにのんべんだらりと「ホームランを打て」というサインを出しているのと同じではないか。

 いや、そんな深刻な話でなくてもよい。尾籠な話で恐縮だが、このまえ、入ったトイレにこういう張り紙がしてあった。
「次の人のためにトイレを汚すのはやめましょう」
 どこか不安定な文章であるが、それはともかくとして、トイレというものは果たして、汚すまいと思えば汚さずに済むものだろうか。

 トイレの使い方がけしからん人はいる。わざとやっているんじゃないかと思うくらいである。しかし、まあ、普通は綺麗に使えるものなら使おうとするもので、その上で汚してしまうというのは、つまり何らかの失敗をしたときである。であればこれは、失敗するな、と言っているのと同じなのだ。汚したら自分で掃除しましょう、という指示には意味がある。汚さないように気をつけましょう、というのも実行可能な命令だろう。しかし「汚すな」というのはつまり、ホームランを打て、と言われているのと同じではないか。そのへんが分かっているからこそ「事故を起こすな」ではなく「飲酒運転を止めましょう」「シートベルトを締めましょう」と言われるのではないか。「皿を割るな」と書いてある飲食店の厨房は嫌だ。

 ところが、考えてみれば、野球においてだ。ホームランを打てというサインはないまでも、応援のとき、我々は平気で次のような声援を送っているのではないだろうか。
「かっとばせ大西」
「大西ー、ここまで飛ばせー」
「ホームランホームランお・お・に・し」
「コラ大西エラーなんかすんなヘタクソ」
 決して「かっとばすよう頑張れ大西」でも「低めを丁寧に突けそれで打たれたら仕方ないぞ大西」でもないのである。どれもこれもムチャな声援なのである。サッカーにおいて同様の声援(「もっと走れ大西」とか)を聞いたことがない。確かに、野球にはちょっと旧弊なところがある、と思わないでもないのだった。


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