注釈を考える

 あなたが今ご覧になっているこのページのアドレスは「http://onisci.com/663.html」ということになっているはずである(註1)。もしそうでなかったとしたら、なかったとしたら。ええと、そんなことがあるだろうか。ないような気もするが、もしそうなっていなかったら、何かがおかしいのである。といって、おかしいからといって私にできることはなにもないので、以下そうだとして先に進みたい。とりあえず、アドレスがへんな場合はクレジットカードの番号やなにかを入力しないように気をつけて下さい。

 フィッシング詐欺さておき、このアドレスの文字列には、いくつかよくわからないところがある。特に最初のhttp云々は、ブラウザにじかに入力するようなときには省いて「onisci.com/663.html」としても別にどうということはない。確か「http」というのは通信プロトコルの名前(註2)だったと思うが、その後のコロンと、スラッシュが二個ある、これはどうしてもないといけないものではないという気がする。いや、なにかそれなりの理由はあると聞いた事があるのだが、ドラマ性に欠ける理由であったらしく、今どうしても思い出せないのである。こんなに思い出せないのだから、どうせたいしたことではあるまい。

 というふうにわからないことを切り捨てて行くと人生がどんどん軽くなってしかたがないのだが、要するに、何が言いたいのかというと、アドレスの最後の話である。スラッシュスラッシュの次のonisci.comというのはサーバの名前(註3)で、またしてもスラッシュがあった後、最後にある663.htmlが、私がこのページにつけた勝手なファイル名だ。末尾の「html」を、私がどうしてファイル名にくっつけているのか。聞かれてしまうとヘドモドする。サーバでそういうふうな設定になっているというほかは、別に意味があってのことではない。どこかのマネをして、そういうものかと思ってそうしているだけである。ただ、こいつの意味は覚えている。確か「HyperText Markup Language」の略だった(註4)。

 ハイパーテキスト。そういえばこれはハイパーテキストなのだった。初めて私が「ワールドワイドウェブ」というものに触れたとき、というのは確か1993年とか1994年あたりになるのだが(註5)、このハイパーテキストというのはずいぶん便利で画期的な仕組みに思えたものである。普通の文章の中にリンク(ハイパーリンク)と呼ばれる参照先が設定されていて、マウスでちょんと押すとそのページに移動できる(註6)。これだけのことだが、これこそが、ウェブを単なる「ページの倉庫」から救い出し、「相互に参照し関連した情報網」たらしめているのである。

 しかし、このハイパーテキストだが、よく考えてみると、それほど特殊なものではない。たとえば本を読んでいて「注記」が入っている場合、これも一種のリンクである。ページの下の方や、巻末にまとめられた註にリンクが張ってあって(註7)、そこを読めば詳しい情報が得られるようになっているのである。科学の論文の場合はもっと、ウェブのハイパーリンクに似ている。「reference(参考文献)」というものがあって、文末にまとめられたリンクをたどって他の論文を読むと、過去の実験なり、理論なりが取得できるようになっているのだ(註8)。このへんの手続きをクリック一発でできるようにしたところがハイパーテキストの偉いところなのだと思う。

 本当に、本の註をたどるのは、とても面倒である。リンク先がそのページの中にある「脚注」ならまだしも、章末や巻末に註がまとめてある場合(註9)、本を読みながら後ろの方のページに指でも挟んでおいて、あっちに行ったりこっちに行ったりしながら読み進めなければならない。いつのまにか本文に熱中していて註をいくつか飛ばしてしまっていたり、ではこの面白い註はどこに付けられたものだったのかといらいらしながら本文を探したり、そうしてページをめくっているうちに挟んでいるほうの指を紙のふちで切ったり、そのことに激怒して本を壁に投げつけてから友人に借りた本だったことを思い出したり、いやもうたいへんなのである。

 とはいえ、考えてみると、ワールドワイドウェブにおいても、この問題は決して完全な解決を見ているわけではない。指を切ったり壁に投げずに済むだけで、「読んでいる文章に別の文章が割り込んでくる」ということそのものの難点は放置されているのだ。これはつまり、文中にリンクが設けてあった場合、それを今すぐ読むか、あとで読むか、これをどうすればよいのかという問題である。リンク先が読みたいのに、今読んでいる文章も途中放棄したくない場合、ふつうは今のページをそのままに、別のウィンドウなりタブを開いて読めばよいのだろうが、このとき本文を追っていた思考が中断されてしまうのは、いかんともしがたい(註10)。

 これは、雑誌記事なんかでもよく感じるところである。あなたが「日経サイエンス」を読んでいたら話が早くてよいが、この雑誌の記事は、妙に図のキャプションが長い。記事を読んでいて、途中で「図を参照」と書いてある。そのページに載っている図を見て、ははーんと思うだけならよいが、そこに細々とキャプションがあって、しかもそれが長くかつややこしくて理解するのに骨が折れたりするのである。そうするとどうなるか。元の記事に戻れない。論理のつながりを失ってしまうくらいならまだよいが、ひどいときにはだいたいこのあたりを読んでいたという記憶さえ失われてしまって、一ページくらい前に戻って理解し直しになる。私がアホなため、キャプションを読んでいるうちにバッファがいっぱいになり、過去の記憶がトコロテン式に押し出されてしまうのだと思う。僕の記憶は80秒しかもたない(註11)。

 つまり、ハイパーリンクはこれと同じである、と言いたいのである。リンク先の文章をちょこっと読んで、ぱっと元の位置に戻れるような、そういう仕組みが必要なのではないか。昔マックにあった「バルーンヘルプ」とか、最近ではよく「アイコンにポインタを合わせてしばらくボサっとしていると小さな説明文を載せたウィンドウが開く」という機能があるが(註12)、ブラウザにもそういう機能があればと思う。マウスのボタンを押している間だけリンク先が開き、離すと消える。読んでいたページの読んでいた場所に戻るのである。

 リンク先のページの文章量が多かったらどうするのかとか、他人のページの注釈としてちっちゃなフキダシの中に自分が書いたページが現れるのはいけすかないとか(註13)、いろいろ問題はありそうだが、ぜひ実装してほしい機能だと思う。というのも、これはこんな文章でも千回の三分の二くらい書いてきた私のことをドーンと信頼していただきたいが、自分が書く分には、注釈が多い文章というのは非常に楽だからだ。何も考えずに文章を書く。あとから思いついた枝葉だとか、つまらない駄洒落だとか、実は知っていて書いているのだが放置しておくと知らないと思われるに決まっているボケだとか、そういうのを苦労して本文中に入れ込むのではなく、全部注釈にして追加するのである。これは楽だ(註14)。

 ウェブブラウザという代物は、今、Firefoxなど新しいブラウザの登場で、ふたたび激しい技術競争が開始されようとしている(註15)。「リンク先をちらっと見る機能」は、ブログにおけるトラックバックのような新たなブレイクスルーの一つと、なりうる新機能であると思うがどうか。と書きつつ、実は自分が楽をしたいだけではとの疑いを差し挟む隙を与えずここで文章は終わる。あ、下にはクレジットカードの番号をいれておいてくださいね。念のために(註16)。


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