昔、というのは昔も昔、紀元前だが、ローマにカトーという人がいた。秀吉配下の武将として「賤ヶ岳七本槍」の一人に数えられるなど武功を挙げ、熊本城を建てたり、朝鮮出兵では虎退治の伝説を残すなどした人とは別人で、他と区別する意味で「大カトー」と呼ばれる。彼は、元老院での演説の際、関係ない演説の最後にも必ず「ところでカルタゴは滅ぼさるべきである」と付け加えるのを常としていた。カルタゴとはなんであるか、どうして滅ぼさないといけないのかはともかく、例えて言うと、テレビコマーシャルに関する肩のこらないコラムのはずなのに、いつも最後は「この国の将来は暗い」とか「政府の姿勢はおかしい」という方向でまとめるようなものかなと思う。
天野祐吉を批判するつもりではなかったのに、どうしてこうなったのか。大カトーのことだが、心配なのは、いつもそうしてカルタゴに言及して演説を締めくくることで、本当に他の議員を説得する効果はあったのか、ということである。反対派にパロディにされたり、ヤジを飛ばされたり、そうでなくてもかなり迷惑な感じがするのではないかと思うのだがどうなのだろう。
「朝よ、あなた、起きて」
「ああ、おはようクラウディア。もうこんな時間か。カルタゴは滅ぼされるべきだよね」
「まあ、朝からそれですか。今朝は何を召し上がります?」
「うん、昨日少々飲みすぎたからな。今朝は軽くスープだけで結構だよユリア。カルタゴは滅ぼされるべきだけどね」
「わかりました。今準備させますからちょっとお待ちになってね。ところでちょっとお話があるのですけれど」
「なんだいコルネリア、そんなに改まって。カルタゴは滅ぼされるべきだ。うん」
「昨日はどこでお飲みになっていたの。着てらしたトーガに口紅がついていましてよ」
「え、ああ、いや。ま、満員電車でついたんだよアウレリア。カルタゴより大切なことじゃないと思うよ」
「うそおっしゃい。ローマに電車がありますか。さあ白状なさい」
「どうだったかなあ。カルタゴが滅んだら何か思い出すような気もするがなあ」
たいへん迷惑な人ではないかと思うのである。もちろん、史実として最終的にはカルタゴはローマに滅ぼされるので(最終的なことを言えばローマだって滅ぶが)、効果はなかったわけではないのだろうが。
どうもあまり論理的な話ではないが、たとえばこれが数学の証明だと、途中に一つでも論理の繋がらないところ、証明が間違っているところがあれば、九仞の功を一簣に虧くような話で、それだけで証明全体が崩れてしまうのだろうと思う。しかし、人間いつもいつも数学ではいられない。実際問題として、強固な理論に一ヶ所だけほころびがあっても、まあよかろうよかろうで受け入れてしまうのが常というものではないだろうか。
むつかしいことを言っているように見えるが、つまりこういうことだ。誰かの書いた小説かエッセイか、文章を読んでいるとする。この作家のことが好きで、楽しんで読んでいるのだが、そこに突然、とんでもないことが書いてある。たとえば、十年くらいその作家と作品を通じて付き合ってきて、あるとき突如として、その人が血液型性格判断を信じていることが分かるのだ。ひっそり信じているだけならまだよいが、文章の中でそれを広言したりしている。どうすればいいかと思う。
カルタゴの場合は、政治的命題はたいていそうだが、滅ぼすのも一つの方向、滅ぼさないのも一つの方向で、本当はどちらが国益にかなうのやら、よくわからないとはいえる。滅ぼされるカルタゴ人の身になって考えるとたまったものではないが、カトーの演説を聞いていた人々にとってどちらがよかったかということで言えば、ずっとあとになっても、本当に正確なところは誰にもわからない。しかし、世の中はそういう曖昧模糊とした物事だけではなくて、やはりどうしようもなく間違っていることがあるのだ。知識の不足でもって間違っているのはしかたがないとしても、足りないのは「考え」であったり、あるいは考えは足りていてもその考え方がものの考え方としてどうにも間違っているような場合、どうしたらいいのかと思うのである。落とし穴はいっぱいある。心霊的な透視術や占い、ありえないほど巨大な陰謀説、空気や水道水をどうにかして健康を改善する装置などなど。
これは、ずっと気に入って商品を買っていた企業が、突如として不正をやらかした、とか、支援していた政治家が実は選挙違反をやっていたとか、そういう状況と相似といえるかもしれない。こんな場合、その企業の製品を買うのをやめてしまうか、政治家の支援をやめてしまうかは、どうだろう、やっぱり「一概に言えない」としかいえない気がする。あなたが潔癖な人であったり、もともと企業なり政治家にたいした愛着を抱いていなかったり、あるいは不正があまりにもひどいものだった場合は、心が離れてしまうことがあるだろう。そして、そうでもない場合は、そのまま支援を続ける場合もあるのではないか。
大カトーは、演説がとても上手だったそうである。カトーの演説は面白いと思っていて、しかし、カルタゴはやっぱり滅ぼしちゃダメだよだってかわいそうじゃない、という意見の持ち主にとってみると、これは「好きな作家が『実は宇宙人が地球に既に来ている』と信じている」に近いと思う。宇宙人が麦畑に模様を作ったり牛を解剖したりするようなことなら、まあ、間違ってるんじゃないかなー、それはヘンじゃないかなー、と確信を持って言えると思うのだが、どっちが正しいんだかわからない、政治的な信条であれば、まあよかろうよかろうと思ってしまうのではないだろうか。現に、私はそういうことを棚上げにして、とにかく読んでいる作家がいるのである。
だとすると「ところでカルタゴは滅ぼさるべきである」は、けっこう、思ったより、効果があるものなのかもしれない。とりあえず、ここから先、雑文の結びをいつも「下の広告バナーをレッツクリック」にしておくと、広告収入が入ってアウレリアの機嫌も直ると思うがどうだろう。