666といえば、これはもう昔から獣の数字です。なぜそうなのか、ぶっちゃけた話あんまりよくは知りませんが、いずれ今後の人生に影響のある話ではありますまい。しかしケモノとは穏やかではない。悪いことに映画や漫画(コメカミに666と入れ墨した悪党が前世紀末を荒らしまわる)のせいで、今やみんなこのことを知っております。学校に入ったら出席番号が666だったり、あるいは携帯電話の番号が666から始まっていたり、いやこういう場合はまだよいのですが、ローンを組んでやっと建てた家が666番地だった、なあんてことになれば、これはもう目も当てられません。黙示録のなんたるかを知らない人まで、あなたの家に年賀状を書くたびに、やあケモノだ、と思うに違いないのです。たいへん迷惑なことです。
そんな獣の数字ですが、昔、面白い説を聞いた事があります。ここで、お近くに何か商品、お菓子かなにかのパッケージがよいと思いますが、そういうのを一つ引っ張り出してくるとします。その裏を見ると、たいていそこには「バーコード」というものが印刷されている。お店のひとは、レジのところでここをピっとやって、その商品がなんであるかを判別するわけですね。このバーコードは「JANコード規格」というものにのっとって印刷されているそうですが、特徴的な縦棒の集合に、あと、下のほうに13ケタの数字の組み合わせで構成されております。実は、機械が縦棒を解析して読み取るのは、数字で書いてある13ケタの数字そのもので、べつだんそれ以上のひみつ情報がバーコードに書き込まれている、というわけではないそうです。
ところが、私の読んだ陰謀の本には書いてあったのです。そうではないと。バーコードの、右端と、真中と、左端のところをよく見ていただきたいのですが、そこにはどんな商品でも、必ず「二本の細い縦棒」というものがあります。キカイに詳しい方なら、バーコードそのものの仕組みをご存知なくても、ははーん、位置合わせかなにかの必要があって入れることになっているのだな、と思われることでしょうが、そのとおりでありまして、これは「ガイドバー」という名前で呼ばれております。ところが、この二本棒は、他の位置にあって、数字を表す場合、実は「6」の意味になるそうなのですね。実際に、手元のバーコードのいくつかをあたってご覧になられると「6」の入っているバーコードがきっとあると思われるのですが、その上には、必ずでないにせよ「二本の細い縦棒」が描いてあるはずであります。どうでしょう。二本棒が三組、即ち「666」。獣の数字が、誰かの陰謀によって世界中で売られているパソコンにもメロンパンにもすべて背負わされていたのであります。じゃじゃん。
私は、ある種の感動を覚えました。どこの誰がこれを決めたのかわかりませんが、よりにもよって、なにも二本棒を6の意味にすることはないのです。実際には、この13ケタのコードの左半分(左端と中央のガイドバーの間)のばあい、ある理由から一つの数字に対して二種の表記法があるので、必ずしも6は「二本の細い縦棒」にはなりません。それに、6を表すコードは「0000101」ないし「1010000」、三つあるガイドバーは「101」「01010」「101」なので、厳密には違うといえば違う。ただ、細い棒が二本、まさにこの間隔で並ぶ配置はガイドバーと6のほかにはないので、妙な感じはいたします。666が獣の数字と知らないわけでもなし、やっぱし誰かの作為はないのかと。いや私はうひゃうひゃ喜びましたけどねえ。
こういう、心のどこかに引っかかっている陰謀論、というのは結構ございまして、いや、アタマではそういうものはない、と分かってはいるのですが、といって簡単に否定して飲み込んでしまうのも個人レベルでは難しくあり、引っかかったまま、かなりの長期間にわたってそのままになっていることも多かったりいたします。上の例は、だからどう、ということはありませんので、ケモノと思おうが思わなかろうがよろしく付き合ってゆけばそれでよろしいのですが、だいたいにおいて陰謀論は「だからなんなんだ」というやつが長生きするもののようですね。サンリオが「山梨の王」から来ているとか、そういう話であります。
陰謀とごっちゃにすると怒られてしまうかもわかりませんが、こういう、ほんまかいな、とは思いつつにわかには否定しづらい話、というのが科学の世界にもたまにございます。どこかで聞いて、ふーんと思って、しばらくして考え直してみるとどうにも信じがたいのですが、といって否定するだけの根拠もないのでそのままになってしまうという、そういうヤツです。
ここで、カマキリが登場いたします。カマキリというのは、ムシのカマキリですが、卵を産みます。そりゃ虫だもの、卵くらい産むでしょう。どこに産みますか。木の枝に産むそうです。へえそうですか。私など、もうここで「へえそうですか」なのでありますが、小学校の理科の授業をちゃんと聞いていたら、こちらも「そりゃ産むでしょう」という返事になるのかもわかりません。で、ある人は主張いたします。カマキリが卵を産む、その枝の高さは、実はその冬の最大積雪量のすぐ上なのであると。だからして、秋にカマキリを観察していると、その冬の雪の量がわかるのである。そういう主張です。
いやそんなことはないでしょう、と理性は思うわけであります。いや、私もこの現代日本エコ日本で生まれ育ってきた人間ですから、「人間サマにできないことがちっぽけな虫けらにできるわけがないじゃないか」とは申しません。いや本当はちょっと思っておりますが、まあ、そういうこともないではなかろうと思います。しかし、いくら生物パワー虫パワーでも、天候相手というのはちょっと分が悪い。本質的にカオス現象である天候の、しかも最大積雪量などとという積分値みたいなものを精度よく予想できるなんてことが、果たして地上の存在に可能なのでありましょうか。なにしろこれ、きちんとやろうと思うと「降る」と「溶ける」、「吹き溜まる」と「吹き飛ばされる」の競争の、最高点を予測しないとならないのです。地勢にもよります。日当たりにもよるでしょう。天候を完璧に予測しえた上で、これであります。
進化論的な立場からも疑問が残ります。卵が雪の中に埋もれちゃう、というのは、なにかしらまずいことがあるのだろう、と想像はできます。しかし、では卵の高さを最大積雪量の「すぐ上」にしないといけない、もっともな理由はなにかあるのでありましょうか。考えてみれば、私がカマキリだったら「雪の多い年になりそう」程度の予想をした上で、安全をみてちょっと上に卵を産みますが。積雪量を正確に予測するカマキリが進化の過程で優勢になるためには、そういう安全カマキリよりも「最大積雪量のぎりぎりいっぱいすぐ上に産むギャンブラーカマキリ」が、よほど有利でなくちゃあいけません。低いところに産むとラクなので、たとえ数センチでもできるだけ下に産むほうがよいのでしょうか。その場合、雪が積もりにくい斜面に比べ吹き溜まりやすいくぼ地に立つ木に卵を産むカマキリはいなくなると予想されますがどうなのでしょう。
といって、検索をかけてみると、なんと「日経サイエンス創刊25周年記念論文賞」なんかを受賞している研究もあるらしい。というわけでこの話をにわかにはウソッパチとも片づけにくく、わからないままこうして疑問だけを置いておくわけであります。いずれ怠惰のなせる技ではあります。