○ユーザー体験
パソコンの、特にソフトウェアの紹介などで「新バージョンではユーザーにすぐれた体験を提供する」等と書かれている。user experienceという語があって、その訳語らしい。おそらくこの言葉が作られた時点ではいろいろ目指すところもあったろうと思うが、なんだかちょっと格好が良くて広汎な応用が利くので、歯止めなしに広く薄く蛮用されたあげく「いかにもプレスリリースっぽいダサ表現」に落ちぶれている、気がする。「使用感」とかなんとか、フツーに書けばいいじゃないかフツーに。
それを言えば「体験」という訳語もあまりよくない。ウェブブラウザを体験すると言われると、なにか、ユーザーが新しいおもちゃで嬉々として遊んでいるような、子供っぽい感じがする、と思うがどうか。
○ロハス
言っておくがロハスにはうらみはない。例として挙げただけで、要するに、最初アルファベットでなじんだ単語をカタカナで書き下すと、自分が今までものすごくまぬけなことをやっていたような気になってくる、ということを言いたかったのである。カタカナのパワーだと思う。「ウィニー」「アイチューンズ」「ウィンドウズビスタ」「オリガミ」など。
○しっかり
答弁や選挙演説を思い浮かべられたい。しっかり議論する、しっかり考える、というふうに使われて耳に残るわけだが、しっかりとはなんであるのか、考え始めると奥が深い。なんであれ完璧というものが存在しない以上、しっかりというのは主観でしかない。皆が納得するまで、ということだと思うが、時間は有限であり関係者の能力も有限なのでなんでもかんでもしっかり行うことは至難の業とちがうか。どうなんや。定量的にいわしたらんかい。
もう一つ、株式ニュースなんかを見ていると「しっかり」という表現がよく使われていて、これは株価などが価値を上げつつ推移していることを示している、ようだ。「小じっかり」というのも見かける。しっかりやれ、と言われたら小じっかりやります、と答えてみよう。しっかられそうな気もする。
○源泉徴収
言うまでもなく、事業者が給料を支払う前に一定額をあらかじめ差し引いて納めること、つまり税金などを給料天引きすることだが、この制度に対して「源泉」という言葉をあてたのはずいぶん思い切っているというか、詩的な表現である。「ゲンセンカン」の源泉ではないか。
これは既に定着しているからいいようなものの、もし今新しくこんなことばを作って普及させようとすれば、各所から猛反発を受けることになるのではないか。誰だって、お金を取られるのは好きではなく、そして世の常として坊主が憎まれている場合最も迷惑をこうむるのは袈裟であるからである。
○鼠に引かれそう
一人きりで寂しい、という感じはよく伝わってくると思うが、「引かれる」というのは、では具体的にどうなるのか、ふと気が付いたが最後、よくわからないのでとても不安になる。鼠に巣穴に引きずり込まれて食べられてしまうのか。怖いよう、と思いながら、調べないで使いつづけている。
○松島やああ松島や松島や
一般には芭蕉の作とされている。覚えやすいキャッチフレーズなのでものすごく人口に膾炙しているが、本人も反省していると思うので松島といえばこれ、と持ち出すのはもうやめてあげたほうがいいのじゃないかなあと思う。
○男の目には糸を張れ、女の目には鈴を張れ
大正生まれの私の祖母は、ときどき、読んだことも聞いたこともない言葉を教えてくれる。一種の「ことわざ」なのだろうと思うが、こういう、昔から地方に伝わっている表現で、全国区になれず、誰も伝えないので消えて行く運命にあるものは結構多いのではないだろうか。
上は「男の子は一重まぶた、女の子は二重まぶたがよい」という意味だそうである。なぜそうなのかはよくわからないが、男は切れ長、女はぱっちりした目がいいということだろうか。他に「お正月は孫祭り(お正月には孫がいっぱい帰って来て祖父母は嬉しい)」とか「わらわら貧乏(赤ん坊が可愛いのでみんなそっちばっかり相手をして仕事にならない。笑いながら貧乏になってゆく)」、また「風邪がお膳の下に入る(風邪を引いていてもご飯の間は元気になるものだ)」などというのがある。昔聞いた「一月は去(い)ぬ、二月は逃げて走る、三月はさげて走る、四月は死ぬほど長い」というのは、三月は多分「去る」が普通で、下げて走るでは意味が通じないので、もしかしたらおばあちゃんの覚え間違いというのもあるかもしれない。
○れんちゃん
「てんぱってる」と同じように、麻雀を知らなくても知っている麻雀用語だと思う。本来の意味はゲームを繰り返すこと、漢字で書くと「連荘」。ただ、なぜか徹夜や残業など悪いことが続くことにだけ使い、連休やボーナスなどよいことが続く場合にはあまり使わない気がする。もしかして、麻雀をやる人にとって麻雀は苦痛なのだろうか。
○女にはしてはならない掟がある。
細木数子の番組の冒頭に、こういうテロップが出ていた。アホウが作っているアホウ番組だなあ、と思った。非科学税と一緒に国語破壊税もとってやるといいと思う。
○それにつけても金の欲しさよ
上の句が何であっても受けられる下の句、とされる。「根岸の里のわび住まい」の類だが、もうちょっと生臭くて、これについて考え始めると、人生ってそんなものだよねえへへ、という卑屈な笑みを浮かべていることに気づいて一人で身もだえする。前段に「お金はいらないよね」「お金お金って言う人はやだよね」という句を持ってくれば接続不可能になるのではないか。いやぜひそういうのを考えたい。
しかしひとつ思うのだが、「それにつけても」がアリなら、こういう万能下の句は、いくらでも考えられるのではないか。「それにつけても阪神の弱さよ」とか。いや今年は弱くないですが。
○音楽オンチ
「七〇年代の音楽に詳しくない」というような場面で、この表現を見かけた。狙いははっきりしない。
○ぼくはそういうことはしない。
これを文章中で使うとものすごく偉そうな感じがするということを発見したので是非活用されたい。何かアホウなことを書いてから、ぼくはそういうことはしない、と否定するのがポイントである。たとえば「普通、このような格好いいフィギュアが付属してくるということになると、近所のコンビニで山のように『大人買い』をすることになるのだろうが、ぼくはそういうことはしない」。何か、奥深い可能性を秘めたすばらしい表現に思える。「東京タワーでは特別展望台まで登る人が多いようだが、ぼくはそういうことはしない」とか。
似たようなものに「これについてはちょっと懐疑的なのだが」がある。大人買いの有効性についてはちょっと懐疑的なのである。
○信頼回復に努める
信頼を回復するのは努めている人ではなくて顧客(または市民)なので、どこか「愛情を得るように努める」に似たところがある。人間は、信頼してくれ、好きになってくれと請われて、相手を好きになるようなものではないと思う。「信頼回復に向けた取り組み」というふうに書いてある場合は、この意味では特におかしなところはないが、だんだん迂遠な感じがしてくる。「信頼回復に向けた取り組みのためのルール作り」とか「信頼回復に向けた取り組みのためのルール作りのための勉強会」とか「信頼回復に向けた取り組みのためのルール作りのための勉強会のための予算」とか……