失われたモバギ

 プロ野球、阪神タイガースの金本選手のファンである。連続試合フルイニング出場(所属チームの全試合に出場、代打を送られたりなどの途中交替もなし)というおそろしく困難な業績の世界記録保持者であり、かつそれをチームの主軸として幾度かのリーグ優勝など結果を残しつつ成し遂げた偉人である。今も記録は更新中だ。このような人が、応援しているチームに在籍していることを、私は誇りに思い、感謝している。

 ところが、テレビの試合中継で金本選手を見るときに、喉の奥に刺さった小骨というか、どうも素直に応援できない理由がある。一つは、かれが広島カープという、これも私が応援しているチームから引っ張ってこられた移籍選手であるということだ。生え抜きでないから応援できない、ということでは決してない。ただ、広島というチームやそのファンに対して申し訳なく、ひたすら申し訳なく思うのである。考えてみれば、今の阪神の三番を打っているシーツと、四番を打っている金本が、ともに元広島の選手である。去年のリーグ優勝は阪神と広島が成し遂げたと言っても決して過言ではない。

 そして、もう一つが、今日もまた試合に出場する金本選手の胸元に、常に下げられている細い紐だ。これは「チタンネックレス」というらしい。詳しく調べてみたわけではないのだが、なにかこう、いかん、これはいかん、というブツである。なぜかというと、金本選手を応援することは、結局、このチタンネックレスを「これもアリ」と許容することではないかと思えるのだ。いや、人間には、特に限界近くでの戦いを日々繰り広げている人にとっては、普段の努力になにかプラスして、精神的に上位に位置する何かによる「守り」が必要なのだ、というのは理解できる気はするのだが。というわけで、応援しつつも心は千々に乱れているのである。

 さて、ここで話は変わるが、そういう意味では、今になって「モバイルギア」から離れられなくなっている私である。

 なにが「そういう意味」だかわからないと思うが、モバイルギア、略してモバギというのは、前世紀の終わりごろにNECが作っていた製品で、小さなノートパソコンみたいなPDAである。いまさらりと「PDA」と書いたが、そういう分類になるのかどうかよくわからない。とにかく、小さな白黒の液晶画面と、ぎりぎりタッチタイピングができるサイズのキーボードを備えた、携帯デジタル機器だ。ワープロのほか、モデムや携帯電話を通した電子メールの送受信機能と、その他ちょこちょこ、電卓や国語辞典や英和辞書、表計算やスケジュール管理ソフトなんかがついている。最近私は、これを使っている。がぜん使っている。ほとんど肌身離さず持ち歩いていると言ってもいい。実はこの文章もそれで書いている。

 どうして今になってそんなものを、という疑問はあろうかと思う。モバイルギアというのはシリーズ名で、私が持っているやつは比較的初期、1996年頃から生産していた機種らしい。私自身は、発売直後ではなく1998年か遅くとも1999年頃にこれを買ったはずで、それから数えても八年ぐらい経っている。ただ、その間ずっと使っていたかというとそんなことはなくて、しばらく休眠状態で保管してあったのだが、一週間ほどの長さの出張に行くにあたり、適当な文章入力装置が必要になって、ふと取り出してみて使ってみると、これが便利だったのである。私の中で、華麗な復活を遂げたのだ。

 ここで内省したい。こういう態度で私はよいのか、いやいかん。いけません。そもそも私は「伝説の武器史観」と、これはいま勝手に名づけたものだが、「一般に古いものは新しいものより良い」という態度に対して懐疑的で、あるいは冷笑的であろうと努めてきた。「伝説の武器史観」というのは、つまり、当代最高の刀鍛冶が鍛えたものよりも、どこぞの古墳から掘り出してきた剣のほうがずっと強力で、こういう魔法の剣を作る技術は失われて久しい、というような物語の枠組み、特に科学技術史観を指す。

 伝説の武器史観は猖獗を極めている。大部分は、かまどで炊いたご飯が一番おいしいとか、家や家具はやっぱり木製で職人の手作りが最高であるとか、そういう罪のないものだが、一方で、古くからの技術は信頼がおける反面、新しく登場した技術は常に健康に悪く、まかり間違えば人の命を奪う、という考えにもなる。治安も景気も企業倫理も、今という時代が最悪で、自分が子供の頃にはそんなことはなかった。大人がずっと大人らしく、子供がずっと子供らしい時代だった。まじめに働いた人が報われる、平等な社会だった。食べ物はおいしく、人々は健康で長生きしていた。いや、物はなかったかもしれないが、心は豊かだった。

 と、話としては面白いけれども、冷静になればやはりこれは、ノスタルジーや都合のよいことだけ覚えている記憶の働き、また、たまには本当に存在する「昔のほうがよい事例」が印象的なのに引きずられた、偏った評価の結果だと思われる。総合すれば、なんだかんだ言っても、今は空前の豊かさと正義と平和を享受している時代ではないか、と思うのだ。

 ところがここでモバイルギアであるモバギである。この旧機種を自分の中でどう位置付けたらよいのか、それが悩ましい。最新のノートパソコンよりもこのほうがよいというのは、伝説の武器史観とは違うのか大西。どうなんだ大西。かつてNECが鍛えた魔法の武器。もはや人類には作れない、魔王を唯一倒せる武器として扱っているのではないのか。私の父親の言葉で言えば、それがお前の嫌いなやつとちゃうんこ。わしまちごたこと言うとるこ。

 たぶん、これ自体は怠惰のなせる技で、ちゃんと探せば今でも私のニーズを満たして便利な文章入力装置というものは、どこかにあるのだろうと思う。モバイルギアが持っている大技小技の中で「単三のアルカリ乾電池二本で三〇時間動作する」というのが、どうも、もはや手に入らない伝説の武器っぽい感じはするのだが、そこさえ我慢すれば、どこかにないはずはない。ゲームもできてインターネットにだって繋がるやつが。

 ところが、ああ、問題は、私がちっともインターネットを必要としていない、ということなのである。家でごろごろしているとき、せっかく持っているノートパソコンを使わないで、わざわざモバイルギアで書いている理由がそれだ。とにかく、作文がはかどる。よくよく考えてみると、どうもこれは「モバイルギアにはほかに機能がない」という理由によるらしい。モバイルギアには、ウェブブラウザがない。ゲームもない。どちらも本当はインストールできるのだが、あえてやってない。そもそも、ネットワークに繋がるように設定をしていない。だから、たとえば喫茶店だとか、駅のホームでこれを開くと、もう文章を書かざるを得ないのである。自分自身の主人であることを放棄した、悲しい物言いだとは思うが、作業がはかどるのは事実で、しこうして手放せぬ。わしまちごたこと言うとるこ。

 というわけで、何が言いたいのかというと、疑似科学への虞れを抱きつつ金本選手を応援し、伝説の武器史観への矛盾した気持ち抱えたままモバイルギアを使い、しこうして生きています、ということである。少なくとも私に関しては、血液型占いを信じている人やゲーム脳を問題視する人についてあれこれ言うのは、もうやめたほうがよいと、そんな気がしている。


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