自然科学を勉強していて、もしかして、ある段階で多かれ少なかれみんな感じることかと思うのだが、中学高校から大学に至る科学教育において、欠けている視点として「他人に対し、自分のやっていることに興味を持ってもらう」というものがあるのではないかと思う。要するに、ある科学者にとって、今自分がなにをしているのかということに関する、素人受けする説明方法の教育である。
これは、説明の技術、他人に理解してもらう技術ということなのだが、一面、でんじろう先生的な、見栄えのするパフォーマンスのやりかたを知っているかどうか、ということでもある。科学的知識を応用した面白いデモンストレーションの手法というのは、一生懸命教科書を勉強すればだれにでも思いつくというものではない。手品で例えると、たとえば「カードを配るとき、一番上を配ると見せかけて一枚下を配る」という技がある。これ自体、訓練すれば見破られないようにできることらしいが、これだけ持っていても、素晴らしい手品はできない。どういう一連のショウの一部として、どう演出するかというのが大事なのであって、科学教育においては技のみを教え、ショウや演出は教えないのではないかと言いたいのである。正しい文法や漢字を学んでもそれが面白い小説を書くこととイコールではない、ということにも似ている。
ただ、大急ぎで弁解すると、もちろん、素人受けする説明ができるかどうかによって科学者としての実力がはかれるものではない。ショウや小説と異なり、科学の本質はデモンストレーションではない。日の当たらない、地道かつ緻密な実験の蓄積や理論の展開が、科学を一歩ずつ進歩させるのである。だから、限りある科学者の人生において「素人への説明」を習得する時間が省かれてしまったとしても、それを責めることはできない。
とはいうものの、それはそれとして、科学者がお茶の間のヒーロー(またはその女性形)ではないということが、科学を素人受けしないものにし、科学者という存在をとっつきにくいものとし、科学を志す若者を異性にモテない存在にして、ひいては若者の科学離れを助長し科学技術立国としての国の基盤を脅かす原因となっているのではないかと、そこまで飛躍しても十人中まあ五人くらいは納得してもらえるというそういう話である気がするのである。違うか科学者諸君。
要するにこれはなんによらずコミュニケーションは大事ということだが、科学のもつ反証可能性という性質が、誠実な科学者から「押しの強さ」を奪っているという、そういう懸念はある。実際、かなりあからさまにヘンテコな主張に対しても、時に科学者は無力である。たとえば「前世はあるか」という質問に対して、科学者はどう答えるか。
「そんなものはありません」
と答えられたら幸せであるが、そうではない。ないと思う。いや確かに、物理学や生物学で培われてきた膨大な知識が、魂だとか生まれ変わりだとかそういったものは存在しないのではないか、と示唆してはいる。しかし、いつか何かとんでもない学問上の転換があり「前世というものはやはりある」というふうに、覆ることがないとは限らないのである。科学というものはそういうもので、どんな常識も覆る余地があるのだ。そこで、誠実な科学者は、
「ほぼないと思われていますが、絶対とは言えません」
というようなことを言うだろう。これは正直で、かつ真摯な回答だが、にこやかな小太りのおじさんが、
「あなたの前世は五世紀のローマの騎士です」
と宣言する迫力にはかなわない。不利なことだと思う。
それでも科学が捨てたものではない、むしろ素晴らしいと思うのは、上の押しの弱さにも関わらず、結局は科学は勝利するということである。一見、その場では負けたようでも、実験で正誤が明らかになる範囲では、科学は確実に勝ちを収める。いや、正確に言えば、実験で否定された見解は科学から取り除かれるという、そういう手続きなので、定義により実験は科学を支持する。世間を見回せば、こういう明快さは非常に珍しい。思想や信条、あるいは、不良息子のことで昔ずいぶんお世話になったとか、相手のバックには暴力団幹部がついている等の事情で正誤がひっくりかえったりしないというのはまことにすがすがしいことである。
この「世間を見回せば」というのは、学問全体を見回せば、ということでもある。残念なことだが、自然科学の範囲は学問全体に対しても決して広いものではなく、むしろ学問世界全体を見渡したとき、正誤は実験が決める、といってすましていられる分野はそう多くない。政治や経済は実験ができない。歴史には解釈の余地がある。そして、語学に関しては、本質的に正しいということがどういうことなのか、考え出すとわからなくなるのである。
本当に、言葉について「正しい」というのはどういうことなのか。我々が「あなたの言葉遣いは間違っています」と言う場合、そこにどの程度の確信を持って言えるのか、ということである。実際には間違った言葉遣いというのはあると思うし、そういうふうに私も言うことがあるわけだが、果たしてそこに、上で持ち出したような科学者の良心はあるかと思うのだ。
たとえば、少し前に文化庁の調査があり、ニュースで報じられて話題になったが「憮然とする」の意味がある。これは本来「失望してぼんやりとしている様子」という意味だそうだが、腹を立てている、ぶすっとしているという意味でずっと読んだり聞いたりしてきて、使ってもいるので、いまさら間違っていると言われても困るのである。よく考えると、この使い方が間違っているとしても、間違ったのは過去の誰かであり、私ではない。私個人に関しては、聞いたとおり「正しく」使っているのであり、間違っているとは言えないと思うのだがどうだろう。辞書を引いても「転じてナントカ」というのはいくらでもあるではないか。
といって、言葉の正誤は、多数決だけでもないと思う。単に多くの人がこう使っているというだけでは、正誤を決めることにはならないと思うのだ。むしろこれは、誤りを指摘する人が、その指摘によってどれだけ多くの人を納得させられるか、というところに収束するのではないか。そして、一旦多くの人を納得させることに成功すれば、そのこと自体が、問題の言葉を多数決的にも正しくしてゆくという、そういうことはある。これは、誰にでも前世について発言できるが、だからといって信じてもらえるかは別、という事情にちょっと似ている。はっきり言うと、誰でも江原某になれるわけではないのだ。
逆に言えば、よく使われている言葉が実は間違っているのだ、と主張するとき、それは自分が世間でどれだけ尊敬されているか、あるいは自分がそれを主張する演出がうまかったかどうか、そういう地位なり技術なりを計る、一種のバロメーターになるのではないかと思う。歴史的には正しいはずの言葉の誤りを指摘して、しかもそれが世間に黙殺されたとき、その人は自分が尊敬されていないことを知るだろう。これとても言葉を扱う学問の本質ではないのではないかとも思うが、世間とのかかわりの部分では、地道な研究家ではなく厳然としてパフォーマーであることを求められる、恐ろしくシビアな世界である気がする。自然科学はそうではなくて、本当によかったと思うばかりである。