「ローマの休日」という具体的なタイトルに関連して報道されることが多いが、50年ほど前の映画の著作権が切れているかどうかの司法判断があり、話題になった。これは、きちんと説明しようと思うとけっこう複雑な話なのだが、2004年から施行された著作権法の改正により、映画の著作権保護期間が公開後50年から70年に延びた、その恩恵を「ローマの休日」はじめ1953年の映画が受けられるかどうかという話だったそうである。2004年の50年前は1954年なので、1954年以降に公開された映画が著作権延長の対象になるのはいいとして、では1953年公開の映画はどうかという、そういう境界上の問題である。文化庁は「含まれる」という見解だったが、東京地裁はそれを否定した。
裁判は控訴されてさらに続くのだろうからまだ結論が出たわけではないが、ひとつ、これに関して考えさせられるのは、50年以上前に公開された映画が、いまだに一定の商品価値を持っている、ということである。上の訴えは直接的には、安いDVDと高いDVDがあって、著作権が認められれば安いDVDの販売を差し止められるという問題だから、高いDVDを、それしかなければ購入する人がいるということだろう。そして、それで映画会社が一定以上の利益を得られているからこそ、訴訟になっているのである。
当たり前だが、今日も映画は作られている。保護期間の延長があったので、今後しばらく、ええと、2024年の終わりまで、新しい「著作権切れの映画」というものは出てこない勘定だが、法改正による再延長が行われない限り、今日公開された映画も、2076年末には著作権が切れるだろう。DVDをプレスしたりするのにかかる、パッケージング費用は、上の「安いDVD」の値段からして今でも五百円以下であり、まして2025年あるいは2077年には、これくらいのもの、ダウンロードで見られないと考えるのは難しい。とすれば、これらはたぶん、無料あるいは無料に近い回線利用料のみで視聴できるようになっているのではないかと思われる。
ここに問題がある。人生は有限で、見られる映画の数は決まっている。ある休日、暇だから映画でも見るかとなった場合、今日作られた映画と、過去の名作の、どちらを見るべきか。これについて「新作映画」を選ぶ理由が、どんどん少なくなる一方ではないか、と思うのである。
まず、たとえ50年前のものでも、名作には価値がある。ローマの休日の「高いDVD」を買う人がいることからして、これは明らかだ。人により映画によるだろうが、50年後まで価値は残存するのである。ところが、見るためにかかる費用は、今年発表のものには著作権があるのに対し、過去のものにはなく、安くで見ることができる。新作にとっては不利な材料である。それだけではない。そもそも「人生における映画ベストテン」と「今年発表された映画」で、後者が勝つ見込みはほとんどない。「日本代表」と「茨城代表」のどちらが強いかというのと同じことである。さらにもう一つ、人生において映画を見る時間は、趣味の多様化により減る一方である。映画自体の数も増えてゆくので、「名作といわれた映画はもう全部見た」という状態には、ますますなりにくくなる。
とすれば、結論はおのずから明らかだ。映画産業の未来は暗い。新作映画は、常に「過去の映画全部」と戦って勝つことを求められる。新作映画を作る監督には、過去の映画全部を見て研究して、また昔はなかった新技術を使って撮影することができるので有利だが、敵の数は常に増え続け、減ることは決してない。これは厳しい。
これは原理的なもので、解決は難しい。結局のところどこかに、人類にとって適切な数の映画、というものがあって、そこにそれ以上新しい映画を加えても、商売としてまったく成り立たなくなってしまうということなのだろう。あとはそれがどれくらい先にやってくるかという、程度問題に過ぎない。遠い未来、映画は増えなくなる。親と子、孫、ひ孫がまったく同じ映画を見るようになる。退屈な未来かもしれないが、映画を見る人にとっては退屈ではない。残っている映画はすべて、ほとんど誰にとってもお金を出して見る価値のある名作で、しかもコストは無料に近い。
もちろん、映画には、時事風俗に即したものなど、70年経ってから見たのでは価値を失うものがある。上の未来像はかなり単純なものだと思うが、多くの傾向の一つとして、見るべき映画が多くなりすぎて新作映画の比重が相対的に小さくなってゆく、ということは確かにあると思う。
以前、たぶん1998年頃に、どこかのサイトで読んだセキュリティ関係のコラムで、迷惑メールに書いてあったポルノサイトを訪問し、あろうことか有料の会員登録をするためにクレジットカードの番号を登録して、あげくの果てに詐欺にあって高額の利用料を引き落とされてしまった人を取り上げていた。揶揄するように「どうして有料サイトに登録なんかするのか、もうインターネットには一生分の無料ポルノが既に存在している」という意味のことが書いてあった。本当にそうなのかどうかは私にはよくわからないけれども、ヌード写真のようなものは映画よりも陳腐化しにくく、数が多く、一つ当たりの容量が小さいわけなので、映画よりもずっと早く、上の退屈な未来像が実現するはずである(もうそうなっている、というのがこのコラムニストの意見である)。
そして、そう考えると、もしかして「雑文」に関してもそうではないか。私は、これまで努力目標として普遍的な、何十年経っても読み返せば一定の価値があるものを目指して書いてきたような気がする。なぜそういうところを指向するのかという理由には、そうでなければ日記になってしまうから、というような曖昧かつ消極的なものしかないのだが、そういう雑文に関しても、インターネット上に一定数あれば、もう一生分の昼休みを楽しく過ごす量があることになり、新しいものをわざわざ書く必要はどこにもなくなる、ということになるのかもしれない。あのサイトがあり、このサイトがあり、膨大な過去の蓄積がある。どうしてそこに大西科学の七百本を付け加える意味があるのか。仮に明日これがなくなったとして、それで何か変化があるのか。
よくわからない。結局自分が楽しければそれでいいかと思って続けているが、せめてもの抵抗として、最近起こった事件に強く関連した、八年前の私には逆立ちしても書けないようなものを書けば、今私がこれを書く理由の一つになりうるのではないかと考え、今回は最近の判決のニュースからはじめてみました。読み返して見ると、あまり時事に関係ないような気もするし、節操がないと思っている。少なくとも、私の死後50年を経過した後なお価値が残存するような文章を、書けているとは思えないのである。