世の中にあるさまざまな危険、日本のどこかで起こった悲しい事件を一つひとつ数え上げて行くと、考えられるすべての危険から子供を守り育てることなど不可能に思えてくる。現実には、これは単に文字どおり不可能なのだろう。完璧な美貌や完璧な知性がないように、完璧な安全というものも残念ながら存在しない。ただそれでも、二つの似たような道があり、BよりもAのほうがわずかながら安全だと考えられるならば、Aのほうを取りたいのは人情である。ここでBがAよりもすごく近道だったりしたら迷ってしまうが、そういう他の条件はまったく同じ、ということになれば、Aを選ぶのは当然のことだ。
そういう話の一つだと思う。「名札」の問題がある。子供が幼稚園でつけている、名前が書いてあるバッジだが、幼稚園から聞いた話で、これを身につけたままスーパーマーケットに買い物に行ったりなどしないほうがよい、ということだった。そんなのどっちでもいいじゃないか、と普通は思うわけだが、名札の存在は、不審者(端的には、子供をさらおうと思う人)をして、行きずりの子供の名前を呼ぶことを可能にする。名前を使って話しかけることで、子供の注目を引きやすく、ひいては誘拐を容易にするのである。よく考えるとこれにはおそらく「迷子になったときに名前がわからない」という別の危険とのトレードオフがあるはずだが、子供の名前や連絡先が外から一目でわかる状態になっている必要はない、ということだろう。うなずける話だし、幼稚園帰りに出かけるにあたって名札を外すくらいなんでもないことだから、これは安全を見て外すべきものだ。
さて、私の娘は今四歳だが、以上の事情が理解できるかどうかは微妙なところがある。特に、世の中には君を誘拐しようとしている人がいる、という想像は大人でも難しいのだから四歳の子供にはなかなか実感をもって理解できないところではないかと思われ、気になってそのへんを尋ねてみたら、こう言っていた。
「そうそう、なふだつけとくと、よばれちゃうんだよね」
理解しているのかどうなのか、なにか「名札を外でつけているとたいへんよくないことが起こる。具体的には『呼ばれる』というふうに聞いて知っているだけではないかと思った。よくわからないが、なにか呪術的なものを感じてたいへん面白い。名前をつけておくと「呼ばれる」のだ。このくらいの歳の子にとっては、世界にリアルに魔法が存在しているような気がする。
ただ、このへんの事情は、実は大人になってもそんなにかわらない。名札をつけて出歩いたら悪いことがあるかというとあまりないだろうが、住所や電話番号とひも付けられた名前の情報は、平穏な生活を脅かすに十分な力を持っている、と考えられている。具体的には振り込め詐欺やマンション購入などの勧誘電話、あるいは架空請求などがそれだが、こういう危険を防ぐため、個人情報の保護ということが言われているのだと思う。
もちろん、実際問題として、電話番号と名前のセットが知られることが差し迫った危険と言えるかどうか、実はそんなにたいした危険とも言えないのではないかという気はするけれども、上の名札を危険とするならこれだって危険に違いない。ちょっとこのあたり「本名と電話番号を知られると呼ばれる」という呪術的なものに近くなっている気がしないではない。
ここで迷惑メールだ。インターネットにおいても、この「本名を知られないようにする」という用心は有効である。猖獗を極めるスパムにおいて、まずはメールアドレスを知られるということがそれに相当するわけだが、もう一つ、迷惑メール送信者側では(メールアドレスは知っているとしても)、私の名前を知らない、ということが意外に強力な防御になりうるのだ。
これは要するに、私のメールアドレスにメールを送る人であれば、私の名前、大西を知っているだろう、ということである。知人はもちろん、初めての人でも私にコンタクトを取ろうとする場合、私が「大西」であることくらいは当然知っているわけで、またメールには、宛名のようにして冒頭に「大西さん」等と書くのが普通である。これは、思ったより強力な、スパムよけのフィルターとして使える。メールソフトの機能を使って、メールの本文に「大西」という文字列が含まれているかどうかを判別すればよい。「大西」となければ即座に迷惑メールと判断する、というのはやりすぎだが、反対に、他のすべての証拠が迷惑メールであることを示していても、文中に大西とあるのであれば容易に捨てるべきではない。一読する価値がある。
というのは、役に立つが、まあ、それだけのことである。実はそれに加えて、最近そういう目で「迷惑メール」ホルダの中の迷惑メールをつらつらと眺めていて、だんだん奇妙な感じがするようになってきているのだ。上のように、迷惑メール業者が知っているのは(おそらくウェブ上を検索して見つけた)私のメールアドレスだけで、名前は知らない。名前を調べられない理由はないが、データベースをそういうふうには作っていないのだろう。それはそれでいいことだが、相手が私の名前を知らないということが、不思議なことに、けっこう悲しいことに思えてくるのである。
いろんな人が私に迷惑メールを送ってくる。事実としては数人かせいぜい十名くらいがいろんな名前、いろんな内容で送ってくるだけだろうが、体裁としては、いろんな歳の、いろんな女性が、私にコンタクトを取ろうとして、丁寧に申し出たり、どうして返信してくれないのかと哀願したり、不実さをなじったりする。恥ずかしそうにしたり、威丈高になったりしたり、事務的だったり、情感豊かに誘ったりする。しかし、彼女らの一人として、私の名前は知らないのである。いくら読んでも、決して、私の名前を呼んでくれることはない。よくて「onisciさん」とメールアドレスを引用するくらいだが、これは私の名前ではない(余談だが、そういう意味で日本のメールシステムは英語圏のそれより頑強であると言えるだろう。単にローマ字にする程度にしても、本名とアドレスは通常異なっているからである)。これは、筋違いだとは思うが、読んでいるとなにか侮辱されたような、寂しく、やさぐれた気持ちになる。私のことなんて、そんなに興味はないんだろうな、と。誰が読んでもいいように作ってあるんだろ、などと。
予言するが、これはいつか変わる。迷惑メール業者は、本名か少なくともハンドル名とひもづけられた名簿を用意するようになり、いつかはベタな勧誘メールの中でさえ「大西さん」と呼びかけられるようになるだろう。それはフィルタにとっては悲しむべき未来だが、この、今の迷惑メールの空虚さというものを味わわなくてよくなるなら、これはこれで、いいことのような気がしてくるのである。これも名前の、呪術的な側面というものかもしれない。