ミサイルの降る夜

 私の通った中学校は、山の中腹を削って建てられていた。一説によれば、隣り合う二つの村を校区とする中学校を建設するにあたり、どちらの村に建てるにしても他方の村から反発が起きるので、いっそのこと二つの村のちょうど境界に建てることにしたから、だそうだ。決めたまではよかったが実際には適当な場所がなく、山を削るしかなかったのだという。

 そのため、中学校はちょっとした高台に位置することになり、生徒は中学校に通うために、毎朝毎夕、急なスロープを自転車を押して上り下りしなければならなかった。それだけではない。山の中腹を削ったということは、中学の校舎の裏側にも、急峻な山肌が存在しているわけだが、それが大雨のたび土砂崩れを起こす。これが建設のあと、長く関係者を悩ませたということである。一度など、校舎まで土砂が押し寄せてきて、復旧にたいへんな日数を要したらしい。

 とはいえ、私が通った八十年代には、そんなことはいちおう、遠い昔の話になっていた。裏山は、かなりの手数をかけて、固定のための工事がされていた。金網をかけたり、水はけがいいように砂利でできた水路を造ってあったりして、ちょっとやそっとの大雨が降っても土砂崩れが起きないようにしてあったのだ。

 私はその山に登るのが好きだった。この背の低いマツがまばらに生えた裏山へは、当時、特にフェンスなどもなく、中学の敷地から入ってゆけるようになっていた。かなりの斜面とはいえ、網のかかった水路の上を歩いて行けば、十分くらいで登りきることができる。そうして、山の上から遠く中学を、そしてそのさらに下に広がる故郷の田園風景を眺めるのは、特にいい季節には、とても気分の晴れる、気持ちのよいことだった。──しかし、というのはつまり、昼の話だ。中天に位置する太陽が、裏山の斜面を正面から照らして動かない。ただ、濃い青を背景に、白い雲が背後の山から出てきては南へと去ってゆく。どこからかやってきた白い蝶が、つかのま制服の詰め襟の周りを舞って、次の花へと向かう。眼下のグラウンドには野球部とサッカー部が部活動を繰り広げ、ブラスバンドの練習の音も聞こえる、そんな正気の支配する、昼。

 だからその夜、私が自分の犬と一緒にそこにいたのは、よほどの経緯があったはずだ。はずなのだが、どうしてそんなことをしたのか、いくら思い出そうとしても、思い出せない。おそらく、家族の誰かとこっぴどくけんかをして、これ以上家にはいられない、と思ったに違いないのだが、今となっては、けんかの相手が誰だったかさえ、遠い記憶の霧の向こうである。ただ、それはたぶん、本式の家出から、ほんの一歩引いたところで、自分の気分を落ち着かせるための儀式だったのだと思う。でなかったら、飼い犬を連れてきたりはしないと思うのだ。

 その晩、夜中まではまだ何時間かあった夜。空には満月に近い月がかかっていて、だからこそ、私は中学の坂を上り、さらに背後の黒々とした山に登ろうなどと思ったに違いない。忍び込んだ中学校の校舎を回り込んで、いつもの斜面を見上げる。目が慣れてしまえば、はっきりと、白い川のように見える砂利の水路の上を、私は登ってゆく。鎖を外しても、絶対に私から離れたりはしない、忠実な私の犬が、あとから登りにくそうについてきた。

 振り返っても夜景、といえるほどのものは、私の町にはない。ただ、町を横切って遠くへと去ってゆく、自動車道路の上を走る自動車が、白と赤の二列の流れになっているのが見えるだけである。見上げれば、冬の夜空は澄み渡って、そのあと私が見たどんな空よりも、遥かに深くて暗い。私は寒さに震えながら、ウィンドブレーカーの前をかきあわせ、白い息を吐く。見れば、私の感慨には関係なく、珍しい山の斜面につれてこられた犬が、同じように、月光のような白い息を吐きながら、地面のにおいを確認している。

 私は月を見て、それから巨大なオリオン座を見る。オリオンのベルトの三ツ星と、両腕、両足。振り上げた棍棒と、盾がわりに構えた毛皮。少し斜めになって空にかかった巨人が、私を見下ろしている。私はぺたん、と冷たい地面に腰を下ろし、尻から這い上ってくる冷たさをしばらく我慢した。それだけ、冬の星座の輝きは圧倒的だったのだ。

 私は、自分にこんな夜中に中学の裏山に登らせることになったあれこれを、ゆっくりと思い返していたと思う。もう帰りたくないと思っていたわけではない。何もかもが嫌になったわけでもない。ただ、私にはしばらくの時間が必要で、ここがそれを与えてくれると思って、それで私はここに来たのかもしれない。ところが、そんなとりとめもない、まとまりもしない考えを、視界をよぎる光が、突然に断ち切った。

 私は気がついた。西の空に明るく輝く点が現れて、東に向けてゆっくりと移動している。いや、確かに移動しているのだった。小さな光の点だったが、それは確かに存在していて、冬の豪華な星空を背景に、ゆっくりと、星座から星座へ移動している。流星。飛行機。人工衛星。あるいは、と考えて、私は、ある単語を思い出す。

 ミサイル。

 そう、その頃は、まだ日本の北に、アメリカと世界を二分する巨大な社会主義国家があり、地球の覇権を争っていた。使われるときはすべてが終わりになるときと言われている、核兵器。北の大国は、それを積んだロケットを山のように備えて、その槍をアメリカに、そしてついでに日本にも、向けている。

 私は凍り付いたような頭を働かせて考えた。さっき、ニュースで何か言っていなかっただろうか。思い出せない。しかし、考えてみれば、私は家を飛び出して、うろうろしていた今まで、どんなニュースからも切り離された状態にあるのだ。もしも今、何か私が知らない国際情勢の急変があり、ソビエトが、あるいはアメリカが、ついに滅亡戦争への引き金を引いたのだとすれば、……そのことを、私はすぐ知り得る状態にはない。

 だとしたら、どうなるだろう。あの光の点は、やがて、東京、あるいは大阪にたどり着き、そこで核分裂反応の火の玉を生む。その下で何百万、何千万という人が消滅し、私を生み、ここまで育てた社会とともに、それぞれの人生を過去のなにものかとする。いや、それだけならまだしもだ。近くに落ちた爆弾で生じた爆風が、私と私の犬とを、ばらばらに打ち砕いて、水路の上のしみに変えてしまわないとするならば。

 私は、立ち上がり、こわばった足をほぐすためにその場で軽く屈伸をした。帰ろう、と誰に言うでもなく言った。たぶん、今日と変わらない日々が、明日も続くことは間違いないだろう。そう思っていた今までの気持ちが、実は危ういバランスのもとに成り立っているもののような気がしはじめていた。帰ろう。そして、謝るべきは謝ろう。そうすれば、さっき感じた恐ろしいような予感が、間違いだったことを自分でも信じられるようになるかもしれない。

 私は、自分の犬の名前を呼んで、ほんのしばらく、かれのことを見つめた。犬は、そしらぬ顔で私のことを見返していた。


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