品質保証部としての相方

「頭を使え」と言われたらとりあえず頭突きをするのが習わしとなっているが、昔から不思議なのがこの頭突きという行為である。そもそも表記が「づつき」ではなく「ずつき」なのになんとなくなじめない感じを抱いているが、そんなアホウなことを言いたいわけではもちろんない。すなわち、頭というのは通常守るべき部分であってそれをこともあろうに武器として使うことに対する疑問である。これではまるで、逃げる泥棒に対してコインを投げて攻撃するようなものではないか。などとこっちもけっこうアホウな話題だが、頭突きにおいて特に奇妙なのは相手の頭にこちらの頭をぶっつけるタイプの頭突きで、物理的に、運動量保存則とかエネルギー保存則などから計算されるところに従えば、こういう頭突きをするとどちらもほぼ同じだけ痛くなるに違いないと思うわけである。

 しかし、そうではなくて、たぶん実際には「頭突きに備えて準備をしている側」よりも「頭突きをされる側」のほうがダメージが大きいと思われる。そうでなければいくらなんでも頭突きをする人がアホウに過ぎるからだが、確かに首などの筋肉を緊張させていると、とっさの衝撃に備えて頭の振動を最低限に抑えることができる、ような気がする。それに、頭にも「硬いところ」と「柔らかいところ」があって、攻撃側は自分の硬いところを相手の柔らかいところにぶつけるよう、ぶつける場所の調整ができるはずだ。

 と、これで何がわかるかというと、要するに、同条件のように見えても、攻撃側は一般に守備側よりも有利になるという、わりあい当たり前の原則の再確認である。確かに攻撃側は好きなときに防御側のもっとも弱いところを狙って攻撃を加えることができる。よく新聞やテレビを見ていて、なんでこんなアホウな記事(番組)を世に出すのか、これなら自分がやったほうがなんぼかマシだ、と思うことがあるが、結局これも、防御側(マスコミ)の弱い部分を、攻撃側(自分)の強いところで攻撃しているから勝てるのではないかと思うのだ。自分が守る側に立つ、というのはこの場合ちょっとよくわからないが、仮に自分が新聞社に就職して一から十まで記事を書くような場合を考えればそれだと思われる。そんなことは金輪際ないような気もするが、もしやればきっと何かアホウな部分が出てくるに違いない。

 それでも、それが仕事なら給料の一部として完璧を求められてもある程度はしかたがないわけだが、自分の人生一般にまで話を広げるとなると、攻撃されたら困るところは多い。給料を得るための仕事のほかにも、自分の家の維持管理から親戚、近所付き合い、子供の教育やビデオの録画設定、バスの回数券がなくなる前に忘れずに買うことや冷蔵庫の納豆の消費期限、財布のありかや最近変更してパスワードがなんに変わったかなど、人生において気にかけるべきことはいくらでもあり、すべてにわたって完璧であることは、とてつもなく難しいからである。

 最近相次いで報道されている、コンロやらストーブやらによる一酸化炭素中毒の事故について、普通思うところは「なぜ換気をしなかったのか」である。火を室内で使うと、なんによらず、換気が必要である。でないと酸素がなくなり生物は生きてゆけない。そのへんのことは、中学の技術家庭科で明示的に学ぶだけではなく、小学校の理科でコップの中のろうそくが揺らいで消える場面として、義務教育を受けたすべての国民の幼い心に刻み込まれているはずではないか。だとするならば、換気しないと中毒を起こすコンロを作ったかどで、どうしてメーカーが責められなければならないのか。ナイフのとがったところで胸を突いたら死にました、と製造会社を訴えるようなものではないか。そんなこと説明されないとわからないようでは義務教育というのはいったい何のためにあるのか。

 ところがそうでもないらしい。そんなことをつらつらと考えていると、突然、ぞっとするような思いとともに記憶が蘇って来たのだ。実は、そのことに気づかずにここに書いたことがあるのだが、昔、私が借りていたアパートの給湯器のことである。この給湯器だが、私がお風呂で気持ちよくシャワーを浴びていると、突然私に向かって冷水を喰らわすという、とんでもない装置だった。しかも再点火しようとすると百回点火つまみをまわしても種火がつかず、裸で給湯器の前でうずくまりながらなんだこの給湯器、アホウが作ったアホ給湯器かっ、と考え始めるという、そういうけしからんやつだったのである。ところが。

 これてつまり「不完全燃焼防止装置」やったんちゃうんか。

 種火がなかなか点かない(特に初回)というのは、たぶんこの給湯器が、自らの責任において不調だったのだろうと思われるが、お湯を使っている途中に消火してしまうというのは、今から考えるとこの、不完全燃焼を防止する機構が働いた可能性が高い。そういえば、給湯器がどこにあるのか私はよく知らずに使っていたこともあり、湯を使うときに換気なんかしてなかったのである。

 これは恐ろしいことだ。リンナイの湯沸かし器に関する報道で「再点火を数百回行うことでセンサーが正常に作動しなくなる」云々という記述があり、そんな極端な使用条件で不具合が起きてもしかたがないのではないか、と一瞬思った訳だが、この私がやったこと、それこそまさに「再点火を数百回行う」なのである。とんでもない。そう思うと、シャワーが水になることなんてなんでもない。まさに、人はうっかりするものであり、そのために不完全燃焼防止装置というものはなくてはならないものなのだ、ということになるのだろう。死ななくて本当によかった。ありがとう不完全燃焼防止装置。

 私は、どう思って使っていたのだろう。室内で火を使うと一酸化炭素中毒になると、思わなかったのだろうか。何にも考えずに、日々給湯器に文句ばっかり言っていたのだろうか。そうらしい。本当に、これが私に取っての「柔らかい部分」だったのだと思わずにはいられない。

 人間の男女が結婚して、共同生活を営むのは、お互いの背中をかくためである。これはもともと比喩的な意味を持つ言葉で、真の意味としては、お互いに至らない部分がないかを監視して、互いに正すためではないかと思う。互いの柔らかい部分を補い合うわけだが、二人で暮らしていると確かに「長所が伸ばされる」というよりも「短所が補われる」という意味合いが強いように思う。そしてそのためには、夫唱婦随(あるいはその逆)などもってのほかであり、相手のすることにいちいち文句をつけて、完璧になるまで食い下がる、そういう態度がパートナーには求められることになる。そういう意味で、結婚は、その最悪の部分にこそ、最良の要素が隠れているのである。


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