ニュートンとマクスウェルの間に

 ちょっと古くなったからといってすぐ新しいのを買うのではなく、いよいよどうしようもなく壊れるまで修理しつつ使いつづける。これは最近の地球環境に関する議論かまびすしい中で、もはや常識に属する美徳とされていて、僕も原則、異論はない。ただ、そのようなポリシーをもって生活していると、結局、身の回りの品はいつもどこか具合の悪いものばかりということになって、何をするにもストレスをためながら暮らしてゆくことになりがちだ。修理をこまめに、かつそのつど完璧にやればよいのだろうが、それにはたいへんな手間がかかる。これは単に新品を買って来るよりもよほど贅沢なことで、だからこそ美徳とされるのだろう。

 あのとき僕は、数ヶ月ほど調子が悪かった浮円環の寿命が、いよいよ尽きるのではないかという予感に毎日おびえていた。調子が悪い日、というか、いつだって調子は悪かったわけで、その中でも特に悪い日にはあちこちを調整したり叩いたりひねったり祈ったり、そういう効果があるようなないようなことを試みながらだましだまし使っていたのだが、いずれどうしようもなくなる日がやってくるのは自明のことに思われた。浮円環だって道具であり道具はいつか壊れる。それは当たり前で避け得ないこととしても、今まさに山場を迎えている仕事が、せめて一段落したあとで壊れて欲しいと思っていたのである。プロに修理を頼むか、あるいはいっそ新しいのを買ってくればそれで済む話なのに、幼いころのしつけの力というものは恐ろしい。

 いつ壊れるか、あるいはいつまで持つかについて、神頼みでもしたいような気持ちになるのは、一つはこの僕に浮円環の動作原理が今ひとつよくわかっていないということがあるのだと思う。いや僕だって、中学の技術家庭科で教わったような、通り一遍のことは知っている。浮円環を抱えて助走すると、地球が持っている地磁気によって、浮円環が内蔵するコイルに誘導電流が流れる。その電流は三次元超伝導コイルの各回路に分配されて、センサーで拾った地磁気に対して、加重をちょうど相殺する磁場を発生するよう、調整される。つまり、小学生の理科教材と同じで、磁石同士が反発して浮いているわけだ。不思議なのは動力として使っているのが乾電池程度であることで、最初に使用者が地面を蹴って助走するときのエネルギーがコイルを流れる電流のかたちで蓄えられることと、あとは使用者を含めた浮円環の位置エネルギーが通常いつも保存していることから、こういうことが許されるそうだが、それはそれとして、体が宙にふわりと浮くあの感覚はかなり直感に反していて、こんなものは調子が悪くて当たり前だとさえ思えてくるのだった。

 その日、僕はいつものように鞄を背負って、浮円環をかかえて家を出た。浮円環を腹の周りに両手で保持して、家の前の道を走る。数歩走るうちに、三次元コイルに十分な電流が蓄えられて、浮円環が力強く体を支え、足が地上から離れる……というのは、つまり調子のいい浮円環の話で、そのときは新品の五割増しくらいの勢いで助走をつけたにもかかわらず、浮円環の浮力は一瞬だけ僕の体を支えたあと、ぱちん、とスイッチが切れるように消えた。僕は尻餅をつきそうになるのを、危うくまぬがれた。軽くひねる形になった足首に、鋭い痛みが走る。

 僕は空想する。頭からこの浮円環を脱ぎ、そのまま、目の前の地面にたたきつける。この、あんまり気に入ってもいない浮円環の、ところどころ塗装がはげた外装が割れて、中身のコイルやら回路やらが露出してぱちぱちと青い火花を上げる。さぞ、胸がすっとすることだろう。しかし、そんなことをすれば始業時間に間に合わなくなることは確実で「自分にとっていちばん大切なものは何か」ということを三回考えて、やっと僕は、痛む足を引きずるように助走を再開した。取っ手の下あたりにいくつかついているバランスつまみをぐりぐりと回して、その可変抵抗についているに違いない錆び(かなにかそういったようなもの)が落ちてくれないかと期待する。

 長かったような気もするが、たぶん三分くらい。僕はアパートの前の道をあっちへこっちへとうろうろし続けた。助走する方角はそれほど関係ないらしのだが、それもまた調子がいい浮円環の話で、僕のがひねくれた浮円環がどういう癖を持っているのかわからない。西に東に走り回りながら、僕の一番大切なもの、会社にちゃんと時間通りに出勤し、いずれは出世してもっと給料をいっぱいもらい可愛くて優しい彼女を見つけて結婚し郊外にマイホームを建て子供を二人作る、というささやかな夢よりも、とにかく今この瞬間に浮円環に復讐することのほうが重要に思えてきたころ、突然、浮円環が地磁気を捕まえた。足にかかっていた荷重がふっと消えて、代わって浮円環に備えられている小さなサドルに当てた尻のところに体重がかかる。届かなくなりそうな地面にもうひと蹴りふた蹴りをくれてやると、僕の浮円環は会社に向かういつもの幹線道路へと乗り出していった。

 周囲を見回すと、僕と同じようにそれぞれの勤め先に向かう人々が、左側通行で朝のラッシュを形作っている。時間に余裕がないのはみんな同じだが、それにしても、僕ほど余裕がない人というのもあまりいないに違いなくて、ごめんなさいごめんなさいね、と僕は声をかけながら道路を飛ぶ。平均高度はおおよそ一メートル。スピードや浮力が落ち始めると、高度を下げて地面を蹴る。摩擦が(ほとんど)ないだけのことで、人力に近いのだが、これで最高時速四〇キロくらい出る。通勤用としての自家用車をたちまち駆逐してしまったのも、むべなるかなである。僕は、人と人、浮円環と浮円環の間に割り込むようにして、先を急いだ。

 そして、そうやっていつになく急いでいたのが悪かったのだろう。あっと思ったときは遅かった。僕が少し無理なタイミングで割り込んだ、大き目の浮円環を持った男に、僕の浮円環が接触したのだ。
「うわっ」
「おい、気をつけろ…って、わっ」
 だらしない悲鳴を上げた僕をどやしつけようとした、相手の男の声も「わっ」という悲鳴で終わった。というのも、バランスを崩した僕の浮円環の内蔵チップが、ついに後戻りできないどこか遠くに旅立ったものか、僕の体が勢いもそのままに、浮円環ごと横滑りして、街道を外れたのだ。
「ちょ、うわ、ごめん、ごめん」
 誰に謝っているのかよくわからない。たぶんさっきぶつかった男に謝りたい気持ちだけが残っていたのだと思う。そうやって浮円環に謝りながらも、僕は道路をはるかに外れ、収穫が終わった水田の上を飛んでゆく。道路よりいくらか低くなっているので、今の浮円環の高度は三メートルほどもあって、足が届かない。長年にわたる酷使が災いしたのか、それともさっきぶつかったときにこれも壊れたのか、高度調整がまったく利かなくなっていた。他のつまみをでたらめに回してみたり、体勢を変えて浮円環に体重をかけ、反発力の方向を変えようともがいてみたが、効果がない。忌々しいことにオートバランサーだけは生きているようで、空中での方向転換ができない。

 いや、なにも命が危ないわけではない。田んぼの上空をすべる浮円環の上で、僕は考えた。エネルギー保存の法則というものがあるのだから、やがて空気との摩擦や内部損失で、蓄えられたエネルギーが底をつき、うまくいけば地面に軟着陸できるはずだ。運悪く空中で立ち往生してしまったとしても、飛び降りて怪我をしそうな高さではない。問題は、それでも痛いのはいやだし、そうやって田んぼに飛び降りて、結果として泥だらけになってしまうと、会社には遅刻するに決まっている、ということだった。

 僕の夢もここまでか、と観念しかかった瞬間、僕の浮円環が、がくん、とスピードを落とした。誰かに後ろからつかまれたのだった。あわてて振り返ると、若い女性が一人。趣味のいい、落ち着いた草色の浮円環に乗って、手を伸ばして、僕の浮円環を捕えていた。
「大丈夫ですか?」
 と、その女性が尋ねる。一瞬、僕は声が出ず、ただ、ぶんぶん、と首をたてに振る。大丈夫ではありませんでしたが今大丈夫になりました。ほんと。女性は、僕の浮円環を握ったまま優雅に姿勢を変えて、浮円環の反発力を道路に近づく方向に向けた。

 数分後、僕と女性は道路の脇、幹線道路を見上げる土手の下を二人で歩いていた。僕の浮円環はさすがにもう使う気はしなかったし、彼女のほうも浮円環の持っているエネルギーを僕の回収に使ったので、ここからいきなり幹線道路に戻るというわけには行かない。側道を二人で歩きながら、この浮円環がいかにやくざなものであるか、壊れるまで使えといった母親のしつけがいかに僕の人生に悪影響を及ぼしているか、などなど、意味のあるようなないようなことについて僕は話し、彼女はそれをにこにこしながら聞いていた。すぐに助走して、行ってしまってもいいようなものなのに、どういうわけかそこにいてくれたのだった。そうだ、後でお礼をしたいので電話番号とお名前を教えてください、と申し出た僕に、彼女は笑って名刺をくれた。

 僕の浮円環は壊れてもう使えない。今から会社に歩いていっても、たぶん遅刻するだろう。ただ、夢の一部は近い将来叶ってしまうのではないかという、そんな不思議な予感がしていた。


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