小説を読んでいると、キングスイングリッシュという言葉がときどき出てくる。よく「いやみな」という形容をつけて「いやみなキングスイングリッシュ」と書いてあるので、きっといやみなんだろうなと思うが、実態がよくわからないながら、ちょっと使ってみたくなる表現である。彼女は、嫌味なくらい完璧なキングスイングリッシュで答えた、とかなんとか、そういうあれだ。キングスイングリッシュを使う彼女に、周囲のアメリカ人がいやそうな顔をするのだ。
ただ、私が中学のときに教わった先生が、なんでもイギリスからの帰国子女で、それで英語をほとんどイギリスで学んだとかで、授業中、気をつけているがときどきイギリス風の発音が出てくるから、出てきたら許してね、とおっしゃっていた。つまりこれはもしかして、本当のキングスイングリッシュを学ぶ機会だったということなのかもしれず、気にせずどんどんイギリス発音を教えてくれたらよかったのに、と今になってかなり悔しい。どう違うのかというと、たとえばcanの発音が、キャンではなくカン、に近い発音になるらしい。それは確かに、アメリカ人もカンに触ることだろう。
とうまいことを言ったところで本日はこれにておしまい、とすればいいようなものだが、キングスイングリッシュ以外になにがあるのかというと、アメリカ英語とか、オーストラリア英語とか、あと、「ドイツなまり」とか「フランスなまり」などの表現をよく見る。私からするとどれもまったく区別がつかないが、いちど機会があってあちこちから来た外国人のかたがたの英語を一通り聞いたことがあって、ドイツ人やイタリア人の英語はなんとなく聞き取りやすい気がしたので、これがつまり、なまっているということなのかもしれない。わかりにくかったのはフランス人と中国人で、一番聞き取りやすかったのはもちろん日本人の英語だ。私は、日本人となら英語で会話をする自信がある、と思ったものだが、同じ音素で近似された英語であるとか、同じ教科書で勉強している、という原因はもちろんあるに違いない。
日本国内ではどうだろう。母国語というか、もとの言語が日本語には違いないので、「rとlの区別がつきにくい」とか「thが発音できてない」などといった事情にさほどの差が出るとも思えないが、ふだん標準語を使っている人と、関西弁を使っている人では、英語のなまりかたに、それでもわずかながら差ができて、鋭敏な知覚を持つ人なら、英語を聞いただけで、なるほどあの人は関西だ、とわかったりはしないのだろうか。
というのも、実は最近、ある日本人の方の英語で、もしかしてこれは、というものがあったのだ。normalizationという単語で、「ノオマリゼイション」とオにアクセントを置いて発音されていたのだが、なんとも、大阪な感じの発音に思えた。これをお読みのあなたは、ぜひ、なんでやねんな、とか、どないやねんな、等と同じメロディで「ノオマリゼイション」と発音していただきたいと思う。いわくいいがたいが、関西な感じの英語というのは、やはり存在しうるのではないか。
さらに、私の故郷は兵庫県だが、「ざ」と「だ」を入れ替えて発音される地域であるらしい。先生がたとえば、明日は体操服をもってきてくざさい、と発音する。家の庭で植え込みがあるところ、「前栽」のことをせんだい、と発音するので、長いことこの言葉は方言だと思っていた(方言には違いないが、発音の違いだけのことだとは思っていなかった)。これを英語に応用すれば、ジスイズダノドミスーパーエクスプレスとか、そんな話になる。なんとなく形になっている気がするのは私が兵庫県人だから、かもしれない。からだのことを「かだら」というのは、ボディのことをドビィということに相当するような気もするが、これはさすがになまりの範疇を越えているような気もする。
しかし、関西弁といっても、一般に関西弁と言われている、そのかなりの部分は「マクドナルドをどう略するか」とか「異性を吉野家に誘う場合なんと言うか」というような、言葉の違いや習慣の違いに集約されてしまい、英語として考えた場合、あまり面白くないのが実情である。英語の文中にウメダやらナンバやらカンクウが出てくれば確かにそこだけは関西発音になるのだろうが、マクドナルドはやっぱりマクダナーみたいなことにならざるを得ない。これはつまらない。
他の方言でもそうだが、関西の言葉もその特徴はやはり語尾にある。語尾が「や」とか「ねん」であればこそ、関西弁だとみんな思うのである。だから、英語をしゃべる上でも語尾を工夫して、ワールドワイドに関西のアイデンティティを広めてゆかねばならない、ゆきたいと私は思うのである。たとえばこんなのだ。
・ヒーキャンスピークイングリッシュやねん。
・カンサイはな、ワンノブザリージョンオブジャパンやでえ。
・ノーウィキャントてなめとんのかおまえ。
・あかんあかん、そんなんノーにきまっとるがな。
なまりとかそういう話ではない感じになってきたが、こういうのを飲み込んでこそ英語も世界言語となりうるのではないかという、そんな話であり、やっぱりあかんあかんそんなんノーにきまっとるがなと思うのだった。せやけど、言うてみるだけ言うてみなんだら損かなと思うやん。ほんま。