特盛という病

 かつて、私がまだかろうじて二十代だったころ。吉野家という牛丼の専門店があり、そこには「特盛」という巨大なバージョンの牛丼のメニューがあった。

 などと、歴史の一ページにしてしまっては吉野家に怒られるが、それからこちら、一言ではいえないほどややこしく根が深い物事があれこれいろいろあって、要するに長いこと吉野家の牛丼は、特にその「特盛」というものが、一般には食べられない時期が続いた。そして今。平成も一九年を迎え、吉野家の牛丼特盛というものがいよいよその販売を再開されようとしているのである。であるが、この機会に「同じものをたくさん食う」について考えたい。考える時期がやってきていると思うのですがどうでしょう。

「同じものをたくさん食う」は一種の病である。すべての栄養書が、義務教育が、三十六にもなっていまだに繰り返される母親の小言が、そして何よりも自分の裡に眠る理性が、食べるのであれば、いろんなものをちょっとずつ、食べることを推奨している。一日三〇品目とかよく言われるあれで、これはうどんにかけた七味唐辛子を「7」と数えて新聞の四コマまんがになっているものだが、われわれはそれくらい、ほっとくと同じものをたくさん食うと思われているのである。いやそうなのだ。本当に、少なくとも私に関して言えば、ちょっと目を離すと同じものばーっかり食べている。なにか、理性ではどうしようもない、その存在の根源的なものがわれわれに命じている気がする。早まった判断は危険だが、この場合のわれわれというのは「男性」というサブカテゴリに属する人々である。

 まったく、「同じものをたくさん食う」は、人生のあちらこちらに鋭い歯のついた口をあけて待っている。早食い大食い競争の類を除くとしても、上述の牛丼特盛、メガマックと呼ばれるむやみに大きいハンバーガー、1・5倍大盛りイカ焼きそば、とんかつのご飯はお代わり自由等々、少し街に出て周囲を見回しただけで「同じものをたくさん食うメニュー」というものが辻々に存在していることがわかるのではないだろうか。先ほどと同様速断は危険ながら、こういうのはすべて、男性が男性のために作ったものである気がする。普通盛を食べて、もしまだお腹がすいていれば、あとでほかのものを食べればよいではないか、という発想がないのは確かである。

 とはいうものの「最近の若者はみんな馬鹿である」という、いわゆる伝説の武器史観に陥らないようにあわてて書くならば、そもそも「同じものをたくさん食う」は昔からあったし、しかもどちらかといえば豊かなこととして考えられていたと指摘をしたい。そういう目で見れば、すぐ「わんこそば」という日本が世界に誇る文化が例として思い浮かぶ。父さんの若いころは正月の雑煮でモチを二十三個食べたとか、磯野家の先祖はおはぎを三十八個食べたので殿様に褒美をもらったとか、そういう話は昔からあるのだ。

 通常、生活のマンネリ化はわれわれがもっとも嫌うところである、とされている。確かに、同じ映画ばっかり毎日見るわけにはいかないし、毎度毎度ウィリアムス藤川久保田で七八九回を抑えるばっかりでは藤川の肩もどうにかなってしまうだろう。車だってパソコンだって新しいほうがいい。やってきた台風が針路をそれると、安心するとともに、どこか残念な、昨日と異なる今日がやってくることを望んでいた気持ちをもてあます部分があるのではないだろうか。

 ああそれなのに、われわれの体は不思議なことに、本来的に「同じものをたくさん食べる病」に蝕まれているのである。ビールのあてに海苔ピーパックばっかり食べる。ひと夏も昼ごはんのたびに同じ食堂に行って飽きもせずざるそばばっかり食べる。牛丼でも並盛かせめて大盛とサラダかなにかを組み合わせればいいのに、どかんと特盛を注文し空きっ腹を全量肉と飯で埋める。せっかくバイキング形式のサラダバーなのに同じポテトサラダを馬に食わせるほど取ってくる。ドリンクバーではブレンドコーヒーばっかり四回もお代わりする。正直に言おう。三食カレーが三日くらい続いても、私はぜんぜん問題を感じない。

 どうして食べ物だけこんなことになるのか、よくわからない。新奇な味よりも、食べ慣れた味を求める心は、要するに食に「安心」を求める気持ちと同じことであり、未知の毒や病原菌から身を守るための遺伝子に組み込まれた知恵なのかもしれない。などといいかげんなことを言ってはいけないが、ひとつ「おふくろの味」というものがこれではないかと、これは指摘してもいいかもしれない。味噌汁等に関して、時として、せっかく来ていただいた配偶者の人に自分の母と同じ味を作るよう強要するという行為を正当化するところの「おふくろの味」。これはつまり、食べなれた味ばっかり食べてゆきたいという、牛丼特盛と同根の欲求によるものかも。

 現在、教育の現場で「食育」ということがさかんに言われている。現代社会において、食べることに関して教育するということを考えた場合は、当然ここに、上の、同じものばっかり食べないこと、というものが含まれるのと思われる。ということは、これはすなわち、それぞれが持つおふくろの味というものを否定するところからはじめるべきものではないかと、私は言いたい。特に、生徒のおよそ半分、男子生徒と呼ばれる連中に関しては、正にそうではないかという気がするのだ。


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