努力が報われること

 昔の軍艦、とくに「戦艦」と呼ばれる艦種の、そのモノとしての魅力のひとつに、それがとてつもない攻撃力を防御力を兼ね備えていて、しかもそれがちゃんと目に見える形で装備されている、というところがあるのではないかと思う。これは大砲という武器の特徴だと思うが、だいたいにおいて大砲は、でっかければでっかいほど遠くまで届き、当たった場合の爆発力とか貫通力とかが強い。砲弾から身を守る装甲というものも、まあ、分厚いほど強いという関係が成り立つだろう。だから、できるだけ遠くから敵を倒すことができ、相手の攻撃は断固これを跳ね返す、そういう強い戦艦を作ろうと思った場合、砲が際限なくでっかくて、装甲が際限なく分厚い、巨大なものにならざるを得ない。そういう存在であるからこそ、戦艦はわかりやすくて、魅力的だと言いたいわけである。

 しかし、よく知られている通り、戦艦の時代はずっと前に終わった。いつごろ終わったかというとたぶんそれは第二次世界大戦の頃だが、海の戦いは空母と航空機が大勢を決するようになって(というより日本海軍がなくなって以降「海の戦い」というもの自体がなくなった気がするが)、せっかく作った戦艦はもはやちょっと使い道がありません、ということになった。これ自体、「イノベーションのジレンマ」みたいな話で面白いが、そうやって戦艦が主役の座を降りて以降、軍艦というものの強さが今ひとつ、わかりにくくなったのは事実である。

 空母にせよ、ミサイル巡洋艦にせよ、それが強いのは、積んである武器が強いからである。戦艦だって砲を積み装甲を積んでいるのだから同じだ、と言えるかもしれないが、空母の場合、本体の性能と飛行機の性能がはっきり分けられるので、心情としては別物と考えたくなる。ミサイル巡洋艦にしても、たとえばイージス艦が強いのは、ミサイルを管制するイージスシステムが偉いのであって、それは船自体が偉いのとはちょっと違うと思うのだ。だいたい、イージス艦と呼ばれてしまうこと自体、現在の軍艦というものが、搭載するシステムによって特徴付けられる、ウェポンキャリアに過ぎない、ということができるのではないか。

 こういう、なにか特定の目的に特化した存在が、時代が進むにつれ、搭載するシステム次第の、汎用品にとってかわられる、という現象を、我々は何度も経験している。たとえば個人用の武器としての剣と盾。あるいは鎧や槍でもいいが、兵器としてのこういった刃物や個人用の装甲は、歴史上のある時期に鉄砲によって駆逐されている。これは、戦艦がミサイルや航空機に地位を奪われた事情に、かなり似ている気がするのだ。槍が銃になり、その銃もだんだん高度化するにつれて、歩兵もどんどんウェポンキャリア化していると、考えることもできる。

 人間同士だと物騒なので、こういう話を考えよう。ロボット同士が格闘する競技があったとする。あるチームは、一生懸命ロボットを鍛えた。この場合の鍛えるというのは、モーターや電源を工夫し、周囲の状況を察知する鋭いセンサーを張り巡らせ、高度なプロセッサを搭載して情報処理をさせる、といったことである。プログラムにも技巧を凝らして、滑らかにすばやく動く強いロボットが出来上がる。ところが、さあ本番、となって、見ると、相手のチームはマネキンみたいなハリボテのロボットに、ミサイルをいっぱい搭載したものを出してくるのである。

 ロボット工学として、どっちががんばったかというと格闘チームかもしれないが、実際戦って強いのはやはりミサイルチームだという気がする。そうだとして、ロボットに搭載されるのが銃器なら、まだなんとなく、ロボット工学が入り込む余地がある感じがするが、ミサイルや、それを管制するシステムのよしあしが勝敗を決するようになった場合、ロボット本体は本当になんでもよい、ということにはならないか。いや、純粋に戦闘技術ということで考えるなら、これは開発の力を注ぐ対象がロボットそのものよりもミサイルとソフトウェアに向くようになる、というだけのことだ。置いていかれたほうの、ロボットなり、軍艦なり、人間の兵士なりを見ていると、どうにもさびしく、受け入れがたい話に思えるし、ミサイルのような飛び道具を明確に禁止するルールにしないと、ロボット格闘競技自体が成り立たない気がするが、これはミサイル工学ではなくロボット工学に興味があるから、という外部的な事情であって、強さ弱さではない。

 しかし、納得はいかないのである。よく「地道に努力をしている人が報われる世の中に」というようなスローガンがあるが、これと「ウェポンキャリア化は嫌だ」というのは、基本的には同じ心情ではないかと思う。「努力をして身につけた技術は尊い」「職人は尊ばれるべき」ということであり、個人に属して、取り上げることができない技能こそが本質的なもので、アタッチメント次第で変わる能力は本来の能力ではない、というものの見方である。その人の内面よりも、所有している自家用車やマンションの部屋や衣服、配るプレゼントの額によって評価されるとしたら、こんなにさびしいことはないと思うわけである。

 現実には、そんなことはない。一般に、技術が進歩し、それがあるところで人間の限界を超えるとき、それは必ず、人間の努力を否定することになるからである。人間は、鍛えたらどこまでも強くなるわけではない。たとえば、どんなNC旋盤よりも精密に金属加工をこなす職人さんがいたとして、しかしそれは「現時点でのNC旋盤」ということであって、技術者が金に糸目をつけずがんばって工夫すればかならずこの職人さんを超えられるはずだ。しかし、もし旋盤を開発する技術者がそれを成し遂げた場合、それは、顕彰すべき職人さんをただの旋盤オペレーターより下に貶めることになるのである。たいへん気持ちの悪いことだ。

 そして、だからこそ、単分子ブレードとか、超振動爆砕剣とか、SFにあってもなにかと剣が登場するのだろう。未来の戦場で、再び剣術に重きが置かれる時代は、まず、やってくるとは思えない。しかし、物語や、それからゲームにおいてもそうである必要はないのだ。さまざまな、もっともらしい制限を設けることで、勝敗を決するのが個人の鍛錬であり「どんな強い武器を持っているか」ではない、そういう状況を設定するのは自由だし、楽しいことだ。むしろ、私は思うのだが、ゲームにおいてどんな武器を持っているかに重きが置かれる必要はまったくなく、芸術的な剣さばき(ゲームなので、コントローラーさばき)がすべてを決するルールであるほうがよい。徒手空拳でも指先ひとつの鍛錬次第で核兵器のボタンに手をかけた独裁者を倒しうる、そんなゲームにこそ惹かれるのではないか。

 そういったゲームにおいては、アイテムや、キャラクターの経験値の価値はほとんどない。それらは一種の装飾にすぎず、プレイヤーの熟練がすべてであるように、作ることはできる(格闘ゲームのように)。初心者にも楽しいようにゲームバランスを維持しつつ、熟練者はどこまでも強くなるように調整するのは難しいことで、特に「十年修行した人よりも二十年修行した人の方が強いようにする」というあたりが、本当に難しい作業になりそうな予感がする。とはいうものの、問題となっているリアルマネートレード(アイテム等をお金で売り買いすること)の入る余地がないのは確かである。自分の技術を売ることは、できないからである。現実にはお金で買えないものはないかもしれないが、そのように考えてゆくと、お金で買えないものに特別な価値を見出すのは、特に、誇るべきことでも、特別なことでもないように思える。


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