政治に関心を持つ

 先ごろ、統一地方選挙というものがあったが、それに先立って、テレビでさかんに選挙に関するニュースをやっていた。茨城県というところが東京のテレビをそのまま映している地域であるということもあると思うが、やはりいちばん時間を割き、大きく扱われたのは都知事選だったと思う。これが、見ていてどうも実感とずれている感じがしてならなかったのだが、というのは、報道に反して私の周囲では、ちっとも選挙ムードが盛り上がってこなかったのである。

 などと書くと、ははあん、さては地方の立場からマスコミを批判しているのだな、とみんな考えると思うのだが、そうではない。テレビであんなに騒いでいるのに反して、私の周囲では街にポスターが貼られるとか、選挙の入場整理券が送られてくるとか、そういうことがなかった、と言いたいのである。私は東京都民ではないので、東京都知事選と関係が薄いのは当たり前だ。しかし、東京は東京として、「統一」地方選挙なのだから、私が住んでいるところでもなにかしら選挙があるはずで、そのための準備がぜんぜん進んでいないように思われたのだ。都知事選はもう選挙戦が始まっているらしいというのに、何をやっているのかと思った。

 しかし、そうではなかったのだ。知らなかったのだが、統一地方選挙というのは二段構えになっていて、実は都道府県と政令指定都市のための選挙が第一段階、それからその他の市町村の長と議員を選ぶ選挙が第二段階、と、二週間おいて連続で行われるのだそうである。私の住んでいるところは、たまたま今回「県」に関する選挙はなく、かつ政令指定都市ではないので、それで選挙の準備が都知事選等に比べてまる二週間遅かったのだった。道理で、報道と実感がずれるはずである。

 と、納得したと思われたい。ああそういうことか、これですっかりわかった、選挙の仕組みがやっとわかった。なんだよ、最初からちゃんと教えておいてくれよな、と。ところが、昨日のことである。別の用事で自分が昔書いた雑文を検索していて、それは第112回のこの話だが、そこでいきなり、いきなりである。こんな文章に出くわした。

「統一地方選挙というものが二段構えになっていたとは知らなかった。」

 私は心底びっくりした。目をこすって読み直したが、どうやら私が書いた文章らしい。日付からすると私がまだ埼玉にいた頃だ。このときにすでに、二段構えの統一地方選挙というものに遭遇して、なぜだろうと疑問に思い、ああそういうことかと納得して、雑文にそのことを書いて、発表までしている。しているのに、そのことをすっかり忘れ、今回もああそうかそうだったのかと納得しているのである。これはかなり恐ろしい。おっそろしいことである。これではほかにどんなことを忘れているのかわかったものではない。少なくとも当時、どこのどんな投票所で投票したかということは、忘却のかなたにあって思い出そうにも思い出せないのだった。行かなかったのかもしれない。これは恥ずべきことだが、当時、住んでいた県や市の政治がどういう人たちによってどんなふうに行われているのかあまり関心がなくて、よくわかってもいなかった。私のことだ、知らない人たちの中から知らない人を選ぶのは意味がないなどと言って、投票にゆく労力を節約をしても不思議はない。節約したカロリーを有意義なことになんか使わないくせに。

 そんな選挙だが、よく考える疑問の一つとして、自分の思想や信条を現実の政治に反映するという目的に対して、今の選挙制度は本当に有効か、というものはあると思う。代議員というくらいで、議員選挙の役割は、自分のかわりに議会で発言してくれる人を選ぶということなのだろうから、立候補した人の中で一等自分の利益を代表しそうな感じの人に投票すればよいわけだが、そこのところがどうも、うまくいっていないように思うのだ。

 今、政治が何らかの手を打つべきさまざまな案件、たとえばそれは、景気とか少子化問題とか環境問題とか、いろいろなものがあると思うが、この一つひとつに対してどういう手を打つか、あるいは打たないかということに対して、それぞれの有権者がみんな一応、意見のようなものを持っているとする。選挙においてはこれらの案件について自分と同じ意見を持つ人に投票すべきということになるが、この「争点」のすべてに関して自分と同じ意見を持った人を探してきて選べるわけではない。争点すべてにすべての候補者が意見を明らかにするとは限らない、ということもあるが、仮にそれがはっきりしていても、意見が分かれる問題がたとえば七つあって、これら案件すべてにイエスかノーかの組み合わせがあって、互いに相関がないとすれば、すべての有権者の意見を反映するためには候補者は最低でも一二八人必要になる。たいていは立候補者の数はこれ以下だと思うが、そういう場合、自分と意見が完全に合わない人に、不本意ながら投票せざるを得なくなるのだ。

 もちろん実際にはそんなばかな話はない。まず有権者のほうでも、すべてどの問題にも自分の意見を持っているかというとそうではない。それぞれの問題に対する解決もばらばらに嗜好されるわけではなくて「大きな政府」「小さな政府」というような、ある種の分類のもとに互いにある程度相関を持って選ばれるので、状況はここまで悲惨ではないだろう。しかし、選挙と言えば争点は一つか二つの大きな問題に限られてしまい、その他の小さな問題については、有権者側で言いたいことがあっても、投票にうまくそれを反映できないのは事実だと思う。県知事や市町村長を選ぶような場合、たいてい候補者は数人程度なので、どういう意見を持っていても、大きく「保守」と「革新」くらいから選ぶことになる。これはレストランで言うと「A定食」と「B定食」しかメニューがないのと同じである。そんならおれもう水でいいよ、と、そういうわけでみんな棄権するのではないか。

 上の「自分の選択をすべて議会に届ける」ということが選挙の本質的な役割なのか、できたとしてもそれが国あるいは自治体にとっていいことなのかどうかは別として、なにか、上のような問題を、選挙制度のほうで解決する方法は、なくはないと思う。それにはまず、人名で選ぶ方法はやめるべきだろう。選挙にあたっては、あらかじめ議会は予想されるさまざまな、十個ほどの問題について、争点としてリストアップ作業を行う。「県道○号線○○交差点の改修事業」とか「三十人学級の実現」とか、そういったようなことである。候補者はそれぞれの争点について賛成か反対か、立場を明らかにし、公表する。選挙当日、有権者が投票に行くと、目下問題になっている、争点として選ばれたさまざまな問題が書かれた紙をもらえる。人名ではなく、それぞれの問題について丸バツをつけて、政府あるいは自治体がそれに取り組むべきかどうかについて投票するのだ。集計はそれぞれの争点について有権者一人につき1票を、その争点に関して有権者と意見の合う候補者に与える(この際、与えられる候補者の数で割る必要があると思う)。こうすれば、有権者は可能な限り自分に近い考えの人を議会に送ることができるはずである。

 候補者の立場が、議会で実際にその問題の採決になったときに変化しないよう、どう拘束力を持たせるかという問題はあるし、重要な問題(憲法改正のような根幹にかかわる問題など)とそうでもない問題(おむつゴミの回収は無料であるべきかどうかなど)でウェイトを同じにしてよいのかという問題もあるが、調整できなくはない。議員としての行動があらかじめ決められたとおりでしかないなら、議員なんて必要ないではないかということになるかもしれないが、突発的な事態や予想しなかった問題は常にあるものだし、そういう場合も「争点の多くで有権者の多数と意見を同じにする議員」という人が行動するのであれば、そうひどいことにはならないような気がするのである。

 そうなれば誰が立候補しているかにほとんど関心がなくとも、有権者が政治の舵取りをしているという実感が生まれ、政治に興味を持つ人が増えて、投票率も上がるだろうと思うのだが、どうだろうか。まあその、冷静になれば、争点の立て方など選挙制度が複雑すぎて、本当にやろうとしたら、ちょっとまともに機能するとは思えない。たとえ、ずっと将来にそうなるとしても、百年くらいは今のまま選挙は行われてゆくのだろう。そして、次の選挙も、また次の選挙も、私は統一地方選のたびに、そうか二段構えだったのか、などとあらためて納得しそうな気がするのである。たいへんよくないことである。


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