量子が渋滞にできることは何か

 言葉として「量子」というのはどうなのだろう。どうなのだろうと言われても、物理学の、用語としての「量子」は、これで定着してしまっているわけで、どうもこうもない。しかし問題は、この量子という言葉を他の目的に援用する場合だ。量子コンピュータとか量子ドライブとか、SF小説の中に適当なジャーゴン的な言葉として使うことがどうなのか、というのは、我々一人ひとりがよく考えてゆかねばならないことである。もしかして、いまどき「量子ジャンプ」などというものを登場させるのは、サイト名を「サイバー大西ナノテク科学2.0」に変更するような、そういう恥ずかしいことなのではないかと思うのだ。特に2.0がいけない。最近、とても危ない臭いを漂わせつつある。もう食べないほうがいいかもしれない。

 量子とはそもそも何か。定義を述べるなら、これは、ある、連続量だと思っていたのが、実はとびとびの量をとることがわかった場合、そのとびとびの量ひとつのことを言う。たとえば、これは辞典にそう書いてあったのだが、電気というのは、連続だと思っていたのが実はとびとびだったことがわかった、物理学の歴史上、比較的初期の一例であると言える。電子ひとつぶんの電荷量、素電荷eというのがそれで、ミリカン(ミカリンではなく)の実験という、古いが巧妙な実験で、ものが帯電するときその帯電の度合いはeの整数倍である、ということがわかる。後代、光のエネルギーとか、電子のスピンの向きといったものも、特定の量の整数倍であることが判明して、物理の根本は要するにこういう量子であるとして考えられた物理学の体系が量子力学である。

 そんなまじめな話をするのではなかった。昔から思っているのは、交通の量子化ということだ。たとえば、駅の改札が高架になっていて、ホームが地上階にある、そういう駅がよくある。逆に改札が地上でホームが高架なり地下なりにある場合も多いが、構造上、駅というものは階段が不可欠であることにはかわりない。この階段で「のぼり」と「くだり」が分けてある場合がある。つまり、人が通るにあたって階段を上にゆく人はこの手すりよりこっち側、下にゆく人は向こう側、と分けてあるのだが、これが「ホームに向かう側」が狭く、「ホームから改札に向かう側」が広い、そういう構造になっていることが多い。ややこしいので以後高円寺駅のようにホームが高架で改札が地上にある構造の場合を考えるが、そういう駅の場合、のぼりが狭く、くだりが広く取ってあるわけだ。

 これがなぜかであるかは、実際に駅を使うとすぐ合点がゆく。ホームから改札に向かう、くだり階段のほうがうんと混むからである。電車が到着すると、電車を降りる人がたくさんいて、それがいっぺんに階段を利用すると、階段は下りの人でいっぱいになる。ところが、家から駅にやってくるのはみんな思い思いの時間にやってくるので、上り階段を利用する人はばらばらととぎれとぎれにやってくる。人数としては、階段を上る人と下る人の人数は、一日を通じて考えるとほぼ同数になるはずだが、違いは、まとまった人数がかたまって階段を利用するかどうか、というところにあって、それが非対称を生み出しているわけである。

 それを見て、ずっと思っていたのだが、これは交通手段による、人ごみの量子化の例である。もともと人ごみというのは「人」という個々の単位によって量子化されているわけだが、それを全体として、なにか連続量のようにして見ることは確かにできる。しかし、いったんバスなり電車なりに乗って通行人がまとまると、そのあとしばらく、人は「かたまり」となって移動すると言える。これは一種、量子化と言えるのではないだろうか。

 わかったようなわからないようなことを書いていると思うが、では別の例を出そう。今、信号のない場所で道路を横断しようとして、車が途切れるのを待っている。交通ルール上、こういう場合はどこか横断歩道か歩道橋を探すことになっているような気がするが、まあそんなことはしないのだ。しかし「フロッガー」みたいな危ないのは嫌なので車が途切れて安全になるタイミングをはかる。待っているとして、かなり交通量があっても、ある瞬間、ぱたっと車の列が途切れ、嘘のように楽々渡れる、という場合が確かにある。

 これには、いろいろな理由があるだろうが、たとえば数キロ先に信号があって、そこで車が定期的に止められる、というような事情があると思う。車は赤信号で止まり、そこで数がまとまるので、信号の「下流」での車の列を見ていると、車がひっきりなしに通る時間と、まったく通らない時間が交互に訪れることになる。車が量子化されているわけだ。もちろん、自動車には速いのと遅いのがいるから、せっかくできたこの集団は次第にばらばらになり、量子化が崩れてゆくことになるが、現実にはこの効果はさほど大きくない。量子化されているせいで、信号が近くになくても、安全に渡れる横断歩道というものは存在しうる。

 通常、道路には上り方向に利用する車と、下り方向に利用する車がいるから、これは結局、渡りやすい横断地点とそうでない地点がある、ということを意味する。東西にまっすぐに続いている道路の、ある地点から東と西ほぼ等距離に一つずつ信号があって、この信号が互いに同期して変わっている場合、おそらくこの地点は「渡りやすい地点」ということになると思われる。それに対して、位相が半分ずれていて、上り方向からの車が途切れたときは下り方向からの車がピークを迎えている、というような状態だと、非常に渡りづらい。いつまで経っても渡れず、一緒に待っている人との間に愛が生まれ道ばたで出産してその子がもう五歳で来年小学校かと気がついて驚く場合もある。いやない。

 小学校さておき、そういうことで考えるならば、上りの車の量と下りの車の量がほぼ同等として、しかし中央線は必ずしも真ん中になければならない、ということはないのではないか。よく、市内の交通量が朝と夕方で反対になる場合(やっぱり郊外に住んで市の中心に通勤する人が多いので)、道路の中央線が時刻によって変わる場合があるが、あれをもっと、動的に行う。道路を時間的にシェアして、交通量が多いほうの道幅を多くすることによって、全体としての交通をスムーズにすることができるのである。

 実際に、加速器なんかで、正電荷の粒子と負電荷の粒子を、大きな輪になった同じ管の中を逆方向に走らせてぶつけることがある。山手線の内回りと外回りが同じレールの上を走っているようなものだが、これも、時間的にシェアするように制御されているので決まった地点でしか衝突が起きないようになっているのだと思う(確か)。言わんとすることは要するにこれで、首都高あたり、うまいこと制御すれば異様にスムーズに流れるようにできる気がするのだがどうなのだろう。

 常磐道三郷から首都高速に入って6号三郷線、向島線と来ると、7号と合流するところ(両国ジャンクション)の手前で二車線だった道路が一車線になって、ここで渋滞することが多い。茨城人の中央環状への流入量をここで制限されているのではないかと思い、いつもなんだか不快になるのだが、たとえばこれを、少し手前で信号をつけるなどして量子化し、7号から来る車と交互にジャンクションを通過するようにする。実際には「車の濃いところ」と「薄いところ」を作り、6号の「濃いところ」と7号の「薄いところ」を、そして6号の「薄いところ」と7号の「濃いところ」を合流するように作れば、今よりうんとスムーズになると思うわけである。

 そうして作った道路に「量子高速」という名前を付けるのが私の夢だが、これがイケているかどうか、それが疑問で踏み出せずにいる。まだ大丈夫だろうか。高速道路2.0とどちらがイケてるかなあ。


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