赤提灯が呼んでいる

 通勤に電車を使っているが、改札を通るときよく思うのは「これは二重スリットに似ている」ということである。

 以前、電車の乗客の量子化、ということについて書いたことがある。電車の乗客は、ふつう、乗るときはばらばらに乗るが、降りるときは比較的まとまって降りてくる。そういう他愛のないどうでもよい話だが、これが本当に量子に関係あるのかという根本的な疑問はともかく、現象として、駅に電車が着き、ドアが開くと、そこから降りた多人数がいっせいに、改札を目指して歩き出すことになるのは確かだ。降りたホームから改札まで歩いてきて、それから自動改札を通る。改札は、小さな駅でもたいてい二つくらいはある。これが、量子力学の本なんかによく出てくる、二重スリットを思い出させるのだ。

 二重スリットとは何か。二重まぶたとはどう違うのか。似ている気もするが、物理の教科書を開くと出てくるところの、二重スリットというものはこういうものだ。まず、細い穴(スリット)を開けた紙を二枚用意する。一枚目にはスリットを一つ。二枚目にはスリットを二つ並べて設ける。この二枚の紙を少し離して置いて、一枚目から二枚目の方向に、光を当てる。一枚目を通過した光が回折して二枚目を通過するようにするなど、いくつか条件を整えると、二枚目のスリットの後ろに立てたスクリーンに、干渉縞と呼ばれる模様が現れる。二枚目の紙に並べて開けた二つのスリットを通過した光が互いに干渉するからである。

 と、この私の説明だけで理解できたら偉いと私は思うが、なんと驚いたことに私は過去にこのサイトにかっこいい説明図を描いたことがある。「ノイズキャンセリングヘッドホン随想」というものだ。いやあ、これは手間が省けた。なんでも、長く続けるといいことがたくさんある。

 さて実は、ここまでは古典物理学の範囲、高校生の物理学の範囲である。波なら、光でも音でも海の波でも、こういうことは起こる。嘘だと思ったら今晩お風呂でちょっと実験していただきたい。実にまっとうでわかりやすい現象だが、ここに量子力学が入ってきて話がイヤラしい感じになるのはこれからである。実は、上のスリットの実験は、光のかわりに電子でやることができて、干渉縞も現れるのだ。そりゃそうでしょう、光でやってうまく行くものは電子でやってもうまく行くでしょう、と思う人もいると思うのだが、電子はいくつかの理由からそれ以上分割できない「つぶ」であることがわかっている。ものが荷電する度合い、電荷量というものがとびとびの値になるとか、そういう話だ。波じゃないのにものの見事に干渉するので、それでみんな驚いたという話である。

 知らない人はそれで幸せだし、知っているひとは量子力学のかなり基本的な話なのでそういうものだと考えていると思うが、これはよく考えたらかなり気持ち悪いことだ。電子源から一回に一粒ずつ、ぽつりぽつりと電子を発射した場合でも、干渉縞は現れる。というのはつまり、発射、着弾、弾着観測をこの順番に繰り返して、電子が当たったところをマークしていくと、よく当たるところとそうでもないところが現れてきて、ためしに頻度を濃淡にして絵を描いてみると、してやったり光の場合と似た干渉縞が現れるということなのである。いっぺんに一つの電子しか装置内にないはずだから干渉する相手は自分自身しかない。自分というのは一人しかいないのに、それが二枚目の紙の二つのスリットのうち、左の穴と右の穴をいっぺんに通過しているのだ。これはたいへん気持ち悪いことである。

 さらに気持ち悪いことに、この干渉縞は、電子が左右どっちのスリットを通ったか観測できるようにしておくと、すっきり消えてしまう。「左を通った証拠」が残っていない場合だけ、電子は左右のスリットを同時に通過して、自分と干渉するのである。理解できないと思うが、一説によると理解している人のほうがおかしいそうなので、安心して理解しないでいてほしい。

 さて改札だ。通常、駅を出るに当たって、複数ある改札のどれか一つを通過する場合、人間が干渉縞を作ることはない。これは、どの改札を通過したかということが、さまざまなかたちで証拠として残るからではないかと思われる。通過する本人が「左から三番目」と記憶しているだろうし、駅というものは無人の荒野ではないのであって、駅員をはじめとして、目撃者は多数いるはずである。ほかにも気流や空気の組成、靴が磨り減って靴を構成していた分子がわずかに床に残ることなどが、乗客がどの改札を通ったかの記録となる。仮に、それがすべていい加減だったとしても、自動改札は切符を回収するので、使用済みの切符が動かぬ証拠として残ることだろう。

 証拠が残った場合、電子がそうであるように、量子力学的な奇妙なふるまいというものは、たとえあったとしても、あとかたもなく消滅することだろう。むつかしいことを言っているようだが、シュレーディンガーの猫は、だからこそがっちりした箱の中に入っているのである。改札は箱の中にあるわけではない。乗客は普通に改札から出て、家路を急ぐだけである。しかし、ここでもし、そういった証拠がいっさい残らないとすればどうか。そこに、二重スリットで見られるような、何らかの量子力学的な効果が現れるのではないだろうか。

 都会の無関心というものがある。あなたは今日、電車を降りて歩いているとき、前を歩いていた人の姿を記憶しているだろうか。雑踏にまぎれて、一人の人間というものは無個性な一個の電子のように、ただの乗客一人としてカウントされる対象となってしまうのではないか。駅係員も、何かトラブルがない限り、駅を通過する客一人ひとりなど、気にも留めまい。かつて切符を手売りし、それに改札で鋏を入れていたころはまた違っただろうが、自動改札となった今、忠実な機械と回収される切符だけがその乗客のことを覚えている。

 しかもその上ここでスイカだ。もともと定期券なら切符は残らないが、スイカやそれと同等な非接触で読み取ることができるカードが登場することで、人は改札を、ほとんど誰の記憶にも残らず、証拠も残さずに通過することができるようになった。特にスイカ定期券の場合は、プリペイドの残額が減ったりしないので、乗客自身も改札の前後でまるで変化がない。おそらく自動改札の内部には電子的に「一人が定期券で通過した」という記録は残るのだろうと思うが、だいたい「一人が定期券で通過した」という記録は残っていいのだ。「一人が定期券で、この改札を通過した」ということが、記録に残らなければいいのである。あの自動改札装置は、独立したものが並んでいるように見えるが実は地下茎でつながった一つの装置であり、かれとしてはさっきの客がどの改札を通過したかなんて意味もないし覚えていないなどという話は、実態はよくわからないが、実にありそうではないか。

 そういうことだ。今宵、改札を注視したい。駅の改札を、たくさんの人が通過していって、家にも帰らないで夜の街へと消えてゆく。その傾向に、不思議に波があって、駅前にあるたくさんの店、それは改札から似たような距離なのに、流行る店とそうでない店ができているのではないだろうか。もしそうだとしたら、それは乗客が、隣の改札を通過してきた自分自身と干渉しているのかもしれない。駅のロータリーをぐるりと取り巻く屋台なり飲み屋なりをスクリーンとして、仕事帰りのサラリーマンが干渉縞を描くのである。特に、ぼーっとしていて自分がどの改札を通過したんだかもよく覚えていないような場合に、干渉は起きやすい気がするのだ。うん、これだけは、いかにもそうだという気がするのである。


トップページへ
▽前を読む][研究内容一覧ヘ][△次を読む