終末の空

 どうして忘れていたのだろう。

 かれは、崩壊した世界の中、走って自分の家に向かっていた。鉄道は動いていない。事故や火災で幹線道路も寸断され、また、ときどき本当に存在する暴徒化したグループも、今となっては避けなければならない危険である。乗っていた自転車がパンクしてしまったあとは、現実問題として徒歩以外に移動手段はなかった。かれは、最後まで持っていた携帯電話を開いて、電池が完膚なきまでに切れていることに気づくと、道端に捨てた。もうこれで、失って困るようなものはなにも残っていない。もともとそうだったが、本当に身軽になった。ただ、それがいいことなのか、悪いことなのか、今のかれにはわからない。

 とにかく、あと数時間で、すべてが終わる。かれは、生活していた街から、この「故郷」までの、長いようで短い道のりを少し思い返して、それから雲に覆われた空を見上げた。その空を割って、落ちてくる小惑星。2007なんとかなんとかという、ローマ字と数字でできた、とても覚えていられない名前しか持たないそれが、あとほんの数時間のうちに、地球をどやしつけ、その上に存在しているすべてのか弱い存在を、炎の中に消しさろうとしているのだ。ここまで来て予測が外れることはない。防ぐ方法もなんにもない。

 そうなる前に、と、細い生活道路を、かれは走る。実家がある方向はおおむねこちらではないかと思われる道の、その真ん中に落ちていた空き缶を一つ、蹴っ飛ばした。顔が思わず笑ってしまって、こういうときでも人間は笑えるのだと思う。考えてみれば、前世紀から引き継いだ環境保護のためのさまざまなキャンペーンは、標語は、ボランティア活動は、すべてこのために仕組まれた壮大な冗談だったのだと、今になってみるとそう思える。資源の節約。地球温暖化の防止。絶滅危惧種の保護。いやそれを言えば街角の清掃や少子化対策や年金問題や、財政赤字も株価も郵政民営化も教育再生も。すべては冗談。交通事故にあい、意識が薄れ行くまさにそのときにも、人は過去の節酒や禁煙、ジョギングのことを、後悔したりするのだろうか。

 激しいクラクション。あわてて体をひねったかれの間近を、すさまじいスピードで赤いスポーツカーが走っていって、そして、十メートルくらい先で、耳をふさぎたくなるような音をたてて、電柱にぶつかり、あっという間もなく、燃え上がった。交通事故に関して不謹慎なことを考えていたかれは、一瞬なんだか天罰を受けたような気がして、それからやっと、目に映っている光景を理解する。ああ、これはあれだ。死んだな。

 ドライバーが死んだ、と思って、それに対して結構無感動になっている自分に気がついて、すげえ俺って映画の登場人物みたいだ、と妙な感想を抱く。実際には、疲れていてあまり深く考える余力がないだけのことかもしれないのだが。しかしそれは幸いなことだ。かれは、燃えさかるスポーツカーに一瞥を与えただけで、そのまま自分の道を急いだ。生活道路は曲がりくねっていて、かれはときどき新宿の高層ビル街やむやみに高いごみ処理場の煙突のような、ランドマークを見つけて方向を修正しなければならない。歩いて里帰りをしたことなんかないので、あとどのくらい走ればいいのか、まったくわからない。かれは息を切らせて、それでも小走りのまま、家路を急ぐ。大人になってから、こんなに走ったことなどない。えいくそ。昔から、運動は、苦手だったんだ。

 ところが気がつけば、このあたりはすでに、かれが少年期を送った街だった。かすかに見覚えがある家並みを通って、半信半疑で速度を緩め、歩いていると、突如として、古びた小学校のグラウンドが目の前に現れる。東京都二三区内。どの鉄道の駅からも微妙に遠くて、あの頃、普通のサラリーマンが一戸建てを、かろうじて持つことができた地区だ。もっとも、かれ自身の家は借家で、友人の場合も、よほど裕福か、そうでなければ昔から商店を経営していたような、もともとのこのあたりの人々が多かった。もちろん、今となってはそれさえも怪しい。ところどころにあった空き地も、かれが大きくなるに従って、あっけなく姿を消していった。学校の裏山と呼んでいた小さな丘も、今は切り崩されて住宅地になってしまっている。

 かれは、昔の通学路をたどって、自分の家に向かった。仲のよかった友人たちや、初恋の女の子の家を覗いてみたいという誘惑を、今は断ち切る。そんなことをしても、かれらが今そこにいるとは思えない。出会ったところで何にもならないし、それに、時間がない。ほとんどの行程を歩かねばならなかったことと、道に迷ったことで、見積もりよりもかなり多くの時間を空費していた。

 やっとのことで家にたどり着いたときには、最後のニュースで彼が聞いた、小惑星接近による影響が出始める時間の、ほんの三十分前、というところだった。最近のスーパーコンピューターは、こういうことがわかるのでやはりたいしたものだ。本当にたいしたものだったら小惑星衝突を避けられたはずだが、それはともかく、数年前、かれが最後に父母の顔を見て以来、一度も帰らなかったその家は、庭に雑草が伸びて、誰も住んでいないと聞かされれば信じてしまいそうだった。その猫の額ほどの庭の雑草むしりを、よくやらされたことを思い出す。

 かれは、ずれたメガネをかけなおすと、呼び鈴を押した。三度押す。返事がない。そうか電気が来ていないんだった、と思い出して苦笑するが、かわりにドアを叩いても、返事はなかった。数年前に定年を迎えた父は、母と一緒にこの家で最期を迎えると思いこんでいたのだが、そうではなかったのだろうか。どこか地域の避難所に避難したか、あるいは、おばあちゃんの家に行ったのかも……と考えて、かれはやさしかったおばあちゃんのことを思い出す。あの人が、この世界の終末を見ずに亡くなったのは、本当に幸せなことだったとわかる。おばあちゃんは、ぼくの幸せを願っていてくれたっけ。

 かれはそんなしんみりした想いをふりはらって、庭を居間のほうへ回り込んだ。そちらには、狭い庭に面した掃き出し窓がある。案の定雨戸は閉まっていたが、この雨戸の建てつけが悪く、しかるべき方向に力を入れれば外からでも外れてしまうことを、かれは知っている。かれは雨戸を外して、それから、庭に落ちていた石を使って、サッシのガラスを割った。

 中は夜のように暗い。電気が止まっていて、雨戸が閉まっているので当然だが、それだけではなく、家自体が、薄汚れて、しばらく掃除もされていないことがわかる。まあ、これは世界中どこでもこんなふうだ。数日後に地球が滅ぶとわかっていて、家の掃除ができる人はそんなに多くない。それにしても急な話で、いやもう、人類というのは滅ぶときにはあっさりと滅ぶもので、かれは麻痺した携帯電話をずっと持っていたにもかかわらず、ついに父母と連絡は取れずじまいだった。

 かれは、悩んだが、割れたガラスを踏み、土足のまま二階への階段を上る。そこには、かれが高校卒業後、物置のように使っていた自分の部屋がある。ふすまを開けると、山のようなマンガ本や古着の詰まったダンボール、丸めたアイドルのポスター、壊れたテレビ、買っただけでものにならなかったギター、という、十代から二十代にかけてのかれの人生の、その暗い一面としか言えないがらくたがぎっしりと詰まっていて、足の踏み場もない。かれはどうにか、そのがらくたの間に体を滑り込ませると、窓のほうに入っていって、学習机にたどり着いた。かれが小学生の頃からずっと使っていた、古びた事務机だ。苦労して椅子をどかせて、一番上の、長い引き出しを引っ張る。引き出しは、ぎしぎしときしみながら、それでもどうにか、開いた。

 そして、その中は。

 かれは、引き出しの中の、書けなくなったボールペンやちびた消しゴム、といった、わずかな小物を放り出して、引き出しの底を叩く。薄い鉄板の引き出しは、ぼんぼん、という軽い音を立てるだけだった。

 そして、この中は、未来につながっていたはずだったのに。

 助けてよ。今、助けてくれなくちゃ、意味がないじゃないか。かれは、失った親友の、あの青いネコ型ロボットの名前を呼んだ。ある日遠い未来から、その引き出しを抜けてやってきたかれの親友のことを。かれのこの世界が、これから滅ぶこと、その帰結として、結局やってこなかった未来から。

 そうか。それで、もうこの引き出しはどこにもつながっていないのか。ひそかに恐れていたことが、いよいよ現実のものになったことで、かれはほかにどうしようもなく、椅子にへたり込んだ。あの親友は、子供時代を終えたかれのもとから去っていった。一人でやってゆけるから、大丈夫だから、と言ったかれの元から。しかしそれは、かれとこの世界を切り離し、明るく光り輝く二十二世紀を、ついに消滅させる行為だったのではないか。現にそうやってあの冒険の数々が少年時代のかすかな夢のような存在になっていたからこそ、ことここにいたるまで、かれはあの親友のことを、思い出しもしなかったのでは。

 かれはきしむ椅子に座り、勉強ができなくて悩んだ小学生時代、よくそうやっていたように、頬杖をついて、窓の外を見た。まるで、そうやっていれば、ふたたびあの親友が未来から助けに来てくれるかのように。かつての自分の部屋から見た空は、そんな時刻でもないはずなのに、夕焼けのように赤く、かれがみんなと飛んだ少年時代の空の面影は、もうどこにもなかった。


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