これからの10年を予測するということがいかに難しいか、特に技術の発展とそれが社会に及ぼす影響などという話題になると、専門家による予測もかなり当てにならないものになってしまう、などと書いて外れたときの言い訳にするつもりだが、たとえば「簡便な視界記録システムの実用化」というのはどうだろう。いかにも今後10年で普及しそうな気がするし、これが社会をいかに変革するかというと、ほとんどインターネットか携帯電話なみのインパクトがありそうに思えるのだ。
既に一部では実験が行われていて、またタクシーのフロントガラスに装備する、車載というかたちでは実用化もされているそうだが、これは要するに、自分が今見ているものを常時記録しておいて、あとで見直せるというそういう装置である。たとえば眼鏡のつるに小さなビデオカメラが取り付けてあって、フラッシュメモリかなにかに映像を記録する。これだけだと携帯電話の動画撮影機能とあんまり変わらないが、朝家を出てから、帰ってくるまで、のべつ幕なしに撮影して記録する装置である、というところがちょっと違う。帰ってきたら眼鏡を外してドックの上に置くと、一日分の映像をより大きなストレージに保管しておいてくれる。パソコンなどを使って、あとで任意の時刻の映像を見直せる、というものだ。
現在の技術で、これが実用化できない理由は特にないと思う。ネックとして思いつくのは一日分の映像を記録するため必要なバッテリーと記憶容量、それからシステムの小型軽量化だと思うが、これらは現状、既にかなりいいところまで来ていると思うのだ。今、市販品だけでこれを実現しようと考えた場合、やってやれないことはない。もちろん、眼鏡のつるにぼこんとCCDカメラがついていてそれが配線されていたりすると、電車に乗ったときなど、周囲にびっくりされるとは思う。しかしまあ、私は思うのだが、これは「電車の中でヘッドホンをして音楽を聞く」というのがはじめて登場したときの印象と、あんまり変わらないのではないか。電車の入り口付近でべたっと地べたに座る勇気があればできる。君にもできる。
できなくてもいいが、これは、けっこう、日常生活をドラスティックに、便利に変える。たとえば、一度会った人の顔は全部記録しておけるという利点がある。財布を落としてもどこで落としたかわかるかもしれない。交通事故の責任の所在、言った言わないの事実がはっきりして、記憶や意見の相違に起因するトラブルがかなり防げるだろう。時刻表の類をデジタルカメラで撮影することは今でも便利に行われているが、冷蔵庫の中身がどうだったか、扉の鍵をちゃんと閉めてきたかどうか、あとで確認できるのはかなり便利だ。「一回見ただけでは覚えられない」「見たことは見たがどうだったか忘れてしまった」ということを防ぐために、現状いかに多くの努力が払われているかを考えると、記憶を代替する役割を果たすこのカメラの便利さは明らかではないかと思う。他に例を挙げるなら、たとえばパソコンが途中でフリーズしても書類を再構築できるだろう。
もちろん、いいことばかりではない。極端なローアングルでスカートの中を撮影したりしない限り、ただちに違法ということはないはずだが、本屋の店頭での「立ち読み」は禁止しなければならないだろうし、映画館も同じことだろう。軍事機密や企業秘密の流出にも気を配る必要がある。ただ、こうしたことはすべて「携帯電話のカメラを規制するのと同じようにこれも規制される」ということであって、さしたる違いはないとも考えられる。結局、普段、生活している普通の人が、普通に見ているものを後で見られる形で残すという装置に過ぎないからだ。街角やコンビニの店内にある防犯ビデオと同じと考えれば、そんなに特殊なものではない。あれがアリならこれもアリだと思うがどうか。あいまいな他人のプライバシーに配慮して、捨て去るにはあまりに便利な装置に思えるのだ。
いったんこうしたものがファッションとして、あるいは必要悪として受け入れられて、広く普及したとき、これは社会を、おそらく根底から変える。やがて眼鏡に映像を投影するなどして「360度周辺をいっぺんに見る」「遠くを見る」「赤外線を見る」といった付加的な機能を持つようになるかもしれないが、そういうことがないとしても、基本システムだけで社会は確実に変わってゆくだろうと思うのだ。というのも、これは町中に防犯カメラがあふれた、相互に監視しあう社会というものを作り上げるからである。誰かに見られていて、しかもそれが記録され、指名手配用の画像として、あるいは裁判所で証拠として使われる可能性がある場所では、違法行為や暴力行為は、控えめに言ってもやりにくくなると思われる。殺人や強盗などの凶悪犯罪が減るかどうかはわからないが、万引きや痴漢行為、ひき逃げなどは激減するのではないだろうか。犯罪を防止するばかりでなく、たまたま「見」てしまった他人の不貞の場面などを使った脅迫もまた行われると思われるので、やはりいいことばかりではないが、人類全体にとって、利害得失のどちらが大きくなるか、わからない。ただ、物事が大きく変わる、それだけは確かである。
携帯電話というものがすっかり普及した今になってみると、「携帯電話の存在しない未来像」というものが、よく考えると、なんだか奇妙に思えるのは確かである。未来を描いたSFで、特に文明が崩壊した様子はないのに、主人公が簡単に使える携帯電話がなく、公衆電話を探したりするのは、今や「妙な話」に思えてしまう。などと言いながら私も現在ないし未来なのに携帯電話が出てこない話を書いたことがあるが、今ひとつ「携帯電話のある世界」になじんでいないからかもしれない。携帯電話があるおかげで、いくらか物語は書きにくくなった気がするような気がするからだ。戦前戦中あたりに書かれたSFには「テレビ」というものが出てこないのでびっくりするが、そういう感覚ではないかと思う。
そして、上の「目線カメラ」は、近い将来、何らかの形で実現しないとしたら、何かよほどの理由がなければならない、必然的なアイテムに思えるのだ。それはお前が思いついたから勝手に盛り上がっているのだろう、と言われるとけっこう傷つくが、なんかその、そういうこともあっていいんじゃないかなー、と思う。仮にそうだとして、しかし、上のように世界が変わってしまうと、今と同じ人々がそこに生きていると書いていいものではない。そこでは、匿名性というものがかなり失われているはずで、意識からして違うと思うのだ。今書かれているSFはどれも、十年後に読み返すと陳腐に思えるかもしれないのである。