天然への郷愁

 なぜこの期に及んでそういうことをするのか、と訊かれたら困るのだが、やはり落ち着かないという理由でもって、私は探索をいったん打ち切ると、近くのトイレに駆け込んだ。用を足して、そこで私はずっと前からそこにあったらしい、プラスチックのボトルを見つける。トイレの臭いを取る、いわゆる芳香剤だ。振ってみたが、中身はほとんど残っていない。もちろん、芳香剤だから、残っていたからどう、ということはないのだが。

 私は、それでも何か使いみちはないかと思って、この芳香脱臭剤をしげしげと眺めた。このボトルは、紙のような布のような白いなにものかが、ボトルの中の液状の薬品に半分だけ浸してあるという、そういう構造になっている。アルコールランプやろうそくの芯、あるいは乾湿式の湿度計の湿球を包むガーゼと同じように、この濾(ろ)紙のようなものが毛細管現象で薬液を吸い上げ、少しずつ薬液を蒸発させるので、いい按配に薬品が空気中に蒸散されるしくみだ。液体芳香剤としてはまずありふれた形式なのだと思うが、背中のラベルの説明書きを読むともなく読んでいたら、そこにこういうくだりがあって、私はちょっと考え込む。

「天然成分配合のため、ろ紙がわずかに着色することがありますが性能上問題ありません」

 残っているわずかな液体と濾紙の色から想像するに、この芳香剤はカキ氷のレモン味のシロップのような、蛍光色に近い、明るい黄色だったのだろうと思われる。この液体を吸い上げ吸い上げて、結果として濾紙は、現にかなり黄色く色づいているわけだが、これは大丈夫心配いらないよ、と書いてあるわけだ。ふうん。

 しかし、思うのだ。濾紙に色がつく、そんなことは当たり前であって、もうこぼれたコーヒーを拭けばタオルが茶色くなるのと同じくらい当ったり前のことだ。このことを心配する人がいるというのはちょっと驚くべきことである。芳香剤なんかなければないで困らない。心配なら使わなければいいではないか。とはいえ、ここではむしろ「天然成分配合のため」という断り書きが注意を引くのである。なんなのだろう、どうなのだろう天然成分。いろいろ考えさせられる言葉ではないか。

 私はボトルを持ったままトイレから出てくると、手近にあった壊れかけた椅子に座って、考え込んだ。なにしろ「天然成分配合のため」である。通常、このように書いた場合、前段は後段を引き起こす原因であることを示す。そういう構文である。たとえば「投手のマメがつぶれたため八回で降板した」とか「作者急病のため休載させていただきます」とか、そういうあれだ。などと、理由が本当かどうかわからない例ばっかり思い出してしまったが、要するに原因を説明し了解を求める文章なのである。しかし、あらためて見るとこの場合、

「天然成分配合のため、ろ紙がわずかに着色することがありますが性能上問題ありません」

 なのであり、ということはこの場合、天然成分配合であることが色が着く主要な原因であると主張していることになる。薬液の色が仮に天然成分ではなく人工成分であった場合、濾紙には色が着かないということになるがどうなのか。天然にこだわって、天然成分でもって薬品に色をつけた結果、濾紙に色が着きどうもスイマセン、ということであるがそういう理解で正しいか。私はそう考えて、思わずくすくすと声を出してしまって、後悔する。自分の声に驚くほど、ここは静かだ、しかし。

 しかし本当のところ、そんなことはありえないだろう。感覚としては着色料というものは、天然よりもむしろ合成のほうがあっちゃこっちゃにべったり色が着きそうな気がする。これも偏見なのだろうと思うが、いったん着色料を使ったが最後、濾紙と言わず指と言わず舌と言わず、いやどうして芳香剤の薬液が指やら舌に着かねばならないのか不明だが、ともかくキイロく染まって二度と取れない、そういう強烈なイメージがあるのはなんといっても人工である。天然はそういう性能に関して人工のものより劣っていると、通常そうした言い訳のために使われる言葉である気がするのだ。

 しかもその上、何を言うかと思えば「性能上問題ありません」である。これが「人体に影響ありません」であれば、けっこう、納得がいくのだ。妥当性があるかどうかは別にして「天然素材だから体にいい」という主張は以前からよくあった。そんなこと言ったってベニテングダケだってヤドクガエルだって煙草の葉だって天然だぞという疑問は当然だが、まあそれはそれ「天然イコール健康的」という主張は、あったかなかったかというとあった。しかし、ここで言っているのは健康上ではなく性能上、芳香剤としての機能を十全に発揮できるかどうかという議論の枠内の話なのである。そりゃ濾紙がちょっと色づくくらい、黄色かろうが赤かろうが性能には影響しなかろうと想像できるが、ではなにが言いたいのか。人工の着色料であれば性能に影響が出るとでも言うのか。

 私は楽しくなってきて、さらに考え込む。休憩ばっかりしているわけにはいかないし、こうやって当面の課題から目をそらしている、一種の逃避なのだろうとは思うが、コーヒーや野球やまんが週刊誌のことを思い出すのは楽しかった。それに、誰に迷惑をかけているわけでもない。

 そう、最大の疑問は「天然成分」にあるというべきだろう。天然成分あるいは天然素材というのは、考えれば考えるほど、なにがなんだかわからなくなる類の主張ではないだろうか。というのも、だいたいどのようなものでも、素材となる原料にまでさかのぼれば天然ものだったはずだからだ。たとえばここにある椅子。まずこれは確かに人工物である。椅子を実らせる木などというものはないからだ。しかし、その素材がどこから来たかというと、なんというか、自然のものではないだろうか。椅子の原材料というと鉄鉱石だとかボーキサイトだとか石油であると思われるが、そんなものをイチから作り出す能力は、人間は一度も手に入れたことはなかったのであり、とすればどこか鉱山かなにかで採れた天然素材ということに、なるのではないだろうか。「中東の地中奥深くから採取された天然の原油を100%原料として使用」とかそんなのだ。素材はおおむねなんであれ天然ものである。あった。かつては。

 ふう、とため息を一つ。私はボトルを床に落とすと、椅子をきしませて立ち上がった。転がったボトルが軽い音を立てて二回ほど転がって、止まる。もっとも。私が今やっていることといえば、天然ではない素材を探しているということになるのかもしれない。リサイクルというよりリユースだが、私は放棄された工場跡をうろついて、使えるものがないか探しているのだった。このボトルだって、飲み水などの保管には十分役に立つしいよいよとなったらそうするだろうが、まだあちこちに飲料水用のペットボトルが残っていて、当面は間に合う。まあ、中に入れるべき飲み物が、雨水や川の水だったりするので、どっちでもいいようなものだが。

 休憩はおしまいだ。私は、もとは喫煙所だったらしい、いまは雑草が伸び放題になっている中庭を横目に見て、次の部屋に入った。事務室らしいそこで、引き出しを開けたり、倒れた戸板をひっくり返したりしながら、私は頭のどこかで考える。人工の、清潔で快適で、ぴかぴかした環境に住んで、かえって人工物ではなく天然素材を求めたあの頃に、人類はいつの日か、ふたたび戻れるのだろうか。私の子が、孫が、いずれは合成保存料に顔をしかめる日がやってくるのだろうか。はんぶん腐った野菜の代わりに。

 私は体の芯に疲れを感じながらも、探索を続ける。パンデミックによって人口が激減し、文明が崩壊したこの世界で、私はまだ使える人工物を求めて、人工の廃墟をさまよっていた。空になった芳香剤よりも、もうすこしいいものはないかと目を光らせながら。


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