「子供には開けたドアを閉める機能がない」と言ったのは西原理恵子(※)だが、確かに、冬に子供と暮らしていると、非常に気になる。子供が部屋から出ていって、ドアを開けっぱなしにするということにである。
実のところ、開けっ放しでいかれてなにが困るかというと、多少寒い、というだけのことにすぎない。それで誰かが傷つくわけではない。自分で閉めに行けばいいのだが、まあ、一瞬とはいえ寒いし、面倒ではないかというと、やはり面倒な気持ちはある。いや、面倒というのともちょっと違う。これは本来自分がやるべき仕事ではなく、開けた人が閉めるべきであると思っているので、余計に閉めに行きたくないのだと思う。そこでいちいち「開けたら閉めなさいーっ」と怒ることになるのだが、怒るということもエネルギーを使うので、それも本当はしたくないのである。面倒だとかエネルギーを使いたくないだとか、あまり健康的な話ではないが、いいのだもう年寄なのだからいいのだ。
通常、こうしたことには人類の歴史上、教育よりも文化よりも王様の作ったお触れよりも、科学そしてテクノロジーこそが八方丸く収まる解決策をもたらしてきたと言える。開いた扉を閉めない人があまりにも多い場合、閉めなかった人は死刑、という法律をつくる代わりに、科学者や技術者は、二重ドアとか、回転ドアとか、バネ仕掛けで勝手に閉まるドアを発明してきたのである。こうしたものを家庭に導入できない理由はないし、そうしないのはコスト的な問題に過ぎないが「日ごろあれだけ口うるさく言ってるんだからいつか子供も忘れずにドアを閉められるようになるはずだ」という思いがあるのかもしれない。これは、一般的な犯罪防止という観点から見ても、実はそれほど効果があることではないのかもしれない、とちょっと思う。
しかし本当に、なぜ閉めないのか。わざわざこたつから出てドアを閉めるのは大変でも、出ていった人がドアを閉めるのは、そんなに難しくもないし疲れる仕事でもないはずである。上の西原理恵子の漫画では「子供は、ドアを開けたその向こうに広がっている世界に心を奪われるせいだろう」というような解釈をしていたが、そうでもないと思う。なんとなく、暖かい部屋から寒い廊下に出ると、背後でドアを、むしろ閉めたくないという気持ちが働く気がするのだ。
これは本当にそう思う。私でさえそう思うのだから間違いない。廊下に出て、ドアを閉めるのには、確かに一定の努力が必要で、子供には難しくて乗り越えがたい、なにか心理的な抵抗があるような気がするのだ。一方、寒い廊下から暖かい部屋に入ってくる場合、ドアは実に抵抗なく、すんなり閉めたくなる。私の一歳になる末っ子でさえ、入ってくるときにはドアを閉めているのを目撃したので、これは間違いない。
なぜだろう。わからない。廊下に出た時ドアを閉めないと自分がちょっと暖かい一方で、部屋に入ってくるとドアを閉めないと自分が寒い思いをする、というのは確かに言える。微妙な温度差だが、心の奥ではこの温度差をちゃんと心得ていて、開け閉めを行っているというのは、ありそうなことだ。
ただ、私の子供の頃からの気持ちをよくよく思い出してみると、なんとなくだが、背後の暖かい部屋への退路を断たれなくないというような、そんな気持ちがあったのは確かである。冬の廊下は、寒いのも寒いが、それよりも暗くて怖いのだ。暖かくて信頼できる家族のいる、部屋との間を、自分でドアを閉めることで、断ち切りたくはなかったのだ。
私の上の直感がもしある程度真実を突いているとしたら、これは先祖代々、ドアなんてなかった樹上で暮らしていた頃から進化によって培われた、基本的な性質であるということになるのかもしれない。もちろん、進化によって与えられた能力は経験と教育によって決して変えられないかというとそんなことはないので、私自身はよくよく気をつけて、ぱちん、とドアを閉めて自分と家族を切り離している。ただ、子供にこれが難しいというのも、まあ、当然のことかもしれないとも思ったりするのだ。
冬は寒くて痛い季節なので、ついつい怒りっぽくなることは確かで、だからドアを閉める閉めないで喧嘩をすることは、実によくある。そんなときに「子供が親を信頼している気持ちがあるからだ」と考えることができたら、少しは怒らずに済むかもしれない。自分は目を三角にして怒るくせに自分は開けっ放しで行く妻に対しても、そう考えればきっと優しくなれると思うのである。だとすれば、これも一種、困難な問題を科学が解決した、その例だと言えるだろう。