「ラーメンを食べるために行列する人の気が知れない」という意見は、いろんなところで、わりあいしばしば目にする。それも夢と希望にあふれた話というよりは、どちらかといえば、この国の現状あるいは将来に対する静かな期待感といったものをがくがくと滅却せしめるような、ええとつまり「日本人は馬鹿だからラーメンごときに並ぶ」という方向性の言葉ではないかと思うのだが、確かに客観的に見ればその通りである。なにしろ、いくらおいしいと言ってもラーメンだ。一時間も並んで食べるなんて馬鹿であって、ほかに食べるべきおいしいものはいっぱいあるのである、と行列を横目で見ながら思うことは私にもある。
しかし現実として行列のできるラーメン屋さんというものは存在している。これがどうしてか、現実から目をそらさずに考えてゆくとしてこれはなぜなのか。「ぶっちゃけ日本人は馬鹿だから」という理由はあるのかもしれず、それはまあぶっちゃけその通りかもしれないが、他にもいろんな、よく聞けば納得できる理由もある気がするのだ。まずもって条件次第で、ラーメンの価値が「ラーメンごとき」のワクを越えて増大することは確かにあるのであって、たとえばこういうのだ。
「新しくできた彼女(ないし彼氏)が、あそこのラーメンどうしても食べたいんだ、と言い出した」
彼氏彼女でなくても親しい友達でもいいが、これが自分の身に降りかかったとしてさあどうするか。「勝手に行けおれはラーメンなんかには並ばないぞ」という人だって、確かに世の中広いのでたまにはいるかと思うが、大多数の意見としてだったら並んでみようと考える人がやはり多いのではないか。この場合、価値がラーメンそのものより恋人や友人の大切さというところに置かれているわけで「ラーメンごとき」なんかではぜんぜんないわけである。まして、恋人なら一緒に並んでいる間になんちゅうか、こう、いちゃいちゃできてうれしいではないか。むしろ、そういうときに恋人に「いや、ラーメンなんかに並ぶのは馬鹿だけだ」と主張するよう若者を教育した場合、少子化により次代を担う子どもたちは誰もいなくなることが予想される。
では恋人のほうを教育したらどうかという意見は真摯に受け止めるが、実際、ラーメン鉢の外部に価値がある状況は恋人以外にもたくさんあり、「子供が泣いて頼むしそういえば最近親らしいことをなにもしていない」とか「上京してきた田舎の両親がかねてよりの思い出にあこがれの名店のラーメンが食べたいと言い出した」とか、以下「世話になった恩師」とか「仲間の輪を壊したくないから」とか「あとで話題にしたいから」とか「それで雑文の一本も書こうと思っている」とか、だんだん理由としては軽くなってきたが、とにかく「気が知れない」と簡単に片づけるよりはもう少し理解しうる事情が個々にあると、考えられなくはない。言ってしまえば、ラーメンに並ばない理由は一つだけだが、ラーメンに並ぶ理由は人により家庭によりさまざまである。一杯のラーメンの上になにかしら追加的な価値を乗せて人は並ぶのだが、むしろこれこそが文化と呼ぶべきものであり、それができるから、はじめて人は与えられた餌を食べる動物の枠をこえて「人間」でいられると思うのである。などと書くと、並ぶことが非常に格好いい事のように思えてくるがどうか。ラーメンごときにだ。
身もふたもないという意見は真摯に受け止める。さてもう一つ考えられることとして「時間の価値が人によって違う」ということがあるのは確かである。同じ人の中でも人生のどの段階にいるかでだいぶ違うと思うが、費やす同じ1時間が、人によって長かったり短かったりするのは確かである。特に「おいしいラーメン」というよりは「お得なラーメン」に並ぶ心境としてそういうことがあって、これは「たとえ一時間並んでもお得なラーメンにありつけたほうが得」という人とそうでない人がいるということである。数百円得するために朝から並ぶ人がいれば、逆に少しくらい高価でも待たずにお昼を済ませられることに価値を置く人もいるだろう。
そこで思うのだが、こうした「並ぶ場面」において、何によらずすべて特急料金をとる、という方向性はあっていいのではないか。
引き続きラーメンを例に取る。このラーメンはおいしくて有名なラーメンで、一杯八百円だが、昼には行列ができるのでまともに並ぶと平均して一時間くらい並ぶことになる。このラーメン屋さんがこのたび特急レーンというものをつくった。こちらに並べば同じラーメンが千円するが、そのぶん並ぶ人が少ないので、待ち時間が短くてすむ。
と、このような露骨なことをすると、せっかくの人気店の人気がたちまち地に落ちて、八百円のレーンにも千円のレーンにも人がいなくなるように思うが、ここは説明が必要である。すなわち「千円の列に並ぶひとの存在により店の利益率が向上しサービスにあてられる」ということで、単に八百円ラーメンに千円レーンを作るとこれは実質値上げだが、この儲けは八百円ラーメンの値下げに使ったり、あるいは通常九百円の質のラーメンを八百円で提供するために使うことができるのである。ここは利益を追求せずまじめに商売をやることが肝心である。もしもそうであれば、「金持ち専用レーン」を作ることでみんなが得をするのだ。ふつうの人は安くラーメンが食べられるようになる。時間が大切な人は時間が節約できる。そして店主は利益率が改善して商売が繁盛する。
ただこれが万人のためのものであることをうまく説明するのは難しい。どうも庶民レーンに並んでいると「店主はうまいこと言って大儲けするつもりではないか」「千円に並んでいる金持ちのぼんぼんと美人の彼女が許せない」という気持ちがむくむくと頭をもたげるからで、こういう商売を続けているといずれ革命によって店主はギロチンにかけられることになる。しかし、繰り返すがちゃんと情報を公開すればこれは「時間の価値」が人によって場合によって違うことを利用して社会の無駄を減らす制度であり、関わる人みんなが得をすることはわかってもらえるはずである。説明の難しさにひるむべきではないのだ。
さようラーメン店は結局営利団体である。では公共のサービスでこれをやろうではないか。鉄道の特急料金、あるいは高速道路などはもともと上の思想にのっとった時間(あるいは労力)と料金との取引になっている例だが、これを時間のかかるさまざまなサービスに拡大する。市役所などの窓口。病院。理容店やスーパーのレジ。神社仏閣あるいは他の観光名所にも採用されてよい。これまでは、ほんの些細な時間の節約に些細なお金を払うことは手間の問題で難しかったと思われるが、技術の進歩により少しずつこの事情は変わりつつある。たとえば駅の自動改札みたいなものを備えつけておいて、手持ちのICカードをタッチすると十円引かれる代わりに優先して処理してもらえるわけである。お店あるいは自治体は、特急料金で儲けたお金を全体的なサービスの改善に役立てればよい。
これが実際に採用された場合、これは経済的な格差というものを人々に強く印象づける制度になるのではないかという危惧はある。ありとあらゆる事柄でやむを得ず「普通レーン」に並ぶことになる人がいて、その人は朝から病院に並んで夕方にならないと診てもらえない。一事が万事この調子であったならどうか。たとえ診療費やその他費用が制度導入前より全般に安くなったとしても、納得はいかないのではないか。たとえ効率が悪くとも「大金持ちでも並ばないと買えないもの」がときにはあるべきなのでは。
そうではないと思うのである。これは「金持ちは金持ちであることで常に優先して診てもらえる」という制度ではない。固定された階級別に人を分けてその分類により優先順位をつけるものではなく、むしろ弾力的に、診療ごとに個別に、その都度料金を払うものであり、場合により症状により時間の大切さが一人の人の中でも異なる、その異なりかたを比較的わずかな(たとえば数百円くらいの)特急料金により区別し、全体の効率をあげるためのものなのである。たとえば忙しい共働きの夫婦の子育てを簡単にする。社会がかれらに時間というサービスを与えるのだが、それがかれらのもっとも必要なものだからである。特急レーンを誰が必要としていて、だれが必要としていないのか。数百円の料金がそれを自動的かつ正確に選り分ける。そして、取れるところから抜け目なくお金を取ることで、あらゆる行政サービスの基本となる財源も確保できるのである。
どうだろう。書いているうちにどうして早くこの制度を導入しないのか、むしろ「日本人は馬鹿だからこんなことにも気づかない」とでも言うべきではないかと思えてくるが、もちろんこういうのは「スパマーみんな死ね」みたいな、いわゆる「理系の政策」であって実際に導入するといろいろ問題が出てくるのだろう。来る総選挙において、どこかがマニフェストに掲げてくれないものか、と私は思っているが、考えてみれば「気が知れない」などと放言する人に政治家になったり政策を提言する資格はないように思うので、やっぱりやめといたほうがいいと思う。ぶっちゃけた話、そう思う。