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 世の中には二種類のAがある。xとyである。

 と書きたいとしよう。なんだか今更な書き出しのような気もちょっとしたが、まあそのちょこっとこんなふうに書きたくなったとする。しかし、ここで困るのは文法上の規則として、xとyを一般化した単語をAに書かないといけないということだ。これは文章を書く上でときどき困ることである。

 なにが言いたいか。こういうことである。

 世の中には二種類の猫がいる。しっぽの長い猫と短い猫である。

 つい「しっぽの長短」というところに注目してしまうし、それが目的の文章だからそれでいいのだが、書くほうとしてはまず「しっぽの長い猫」「短い猫」の共通項である「猫」を抽出して文章の前段に書かねばならない。などと大上段に構えて書くとものすごく難しいことをしているようだが、普通は簡単だ。「阪神ファンとそれ以外である」なら「人間」。「半角と全角である」なら「文字」である。簡単だ。ところが、ときどき、本当にときどき、Aをどうすればいいか、まったく思いつけないことがあるのである。いやそんなものないだろう、と思う人は次を見て欲しい。

 世の中には二種類のAがある。アナログとデジタルである。

 ほらどうにもならない。八月はもうテキストエディタにずっとこの文章を開いておいて一ヶ月くらい悩んだのだが、どうにもならなかった。更新が遅れたのも要するにそのせいである。などとあざとい言い訳はやめてほしいと思うが、思いつかないのは本当で、だからして今回はこのまま書くことにする。とにかく世の中には二種類のむにゃむにゃ君があって、それはアナログ君とデジタル君なのである。ね、ね、わかるよねみんな。あるよねデジタルとかって。

 デジタルといえば地上波デジタル放送である。実は最近うちでは、世間より一周遅れて地上波デジタルの入るビデオを買い、地デジ鹿もクサナギ君もすっかり上から見ている感じがしている。ちょっと数万円の装置を買っただけで人間ここまで傲慢になれるものかと自分でも不思議なほどだが、テロップ等で「早く移行してください」と言われるのに対して「ああ、それね? もう終わりましたよ」と答えられるのは実に気分がいいのだ。同じことならもっと早くやっておけばよいのだが、どうして早くやって楽になっておかなかったのか。小学生の子供を持つ親なら夏休みの終わりに同じことを思うわけだが、今回私も実にそう思った。進歩はない。

 とにかく地デジがデジタルであることは間違いない。いや、地デジというくらいなので地デジはもちろんデジタルなのだと思われるが、だからといってなにがデジタルなのか、よく考えてみるとわかっていない。おそらく電波がデジタル形式で伝送されてくるのだろうという想像はつくが、そういえばアナログのテレビこそアナログ電波でどうやってあんな画像が電送されてくるのか、わかってなぞいないのだ。その意味でわからない。たぶん電波に赤の電波と緑の電波と青の電波があり、それらを混ぜるとカラーになるのではないかとは思うものの、そんなわけあるかとも思えてくる。その点、デジタルは(204,204,153)という数字が送られてくるのだろうとまだ想像できる。昔の人は偉かった。

 余談が多すぎて話が前に進まないが、ことほど左様に、世間はアナログからデジタルに移り変わってゆく。よかれあしかれ何事もアナログよりもデジタルのほうが便利であり性能がいいのであり、これは確かであるらしい。音楽はウォークマンからアイポッドになり、あるいはレコードからCDになり、最後にはダウンロード販売されその名もデジタル音楽になった。映画だってデジタル配信だったり、映画館に行ってもデジタルで上映されていたりする。カメラもデジタルであり、むしろカメラこそデジタルである。いやいや昔はプラスチックのフィルムに薬品を塗布して、それに照射された光の強さを化学反応の程度によって捉えられていたんだぜ、などと言われると、今やなにか非常に嘘臭く感じる。そんなものでうまく写真が撮れるはずがないではないか。

 しかしそうなのでしかたがないが、さてこの「アナログ」なり「デジタル」なりの単語。これらに我々が最初に慣れ親しんだのは、やはり時計の表示方式を指す言葉としてではないかと思われる。アナログ時計というのはつまり針時計である。針の角度によって今の時間を読み取るのが「アナログ」であり、一方、数字が数字として表示され、これを直接読み取るのが「デジタル」である。デジタル時計などというものはもう三十年か、それ以上昔からあり、これを上の音楽なり撮像の例で考えるならば、とっくにアナログは駆逐されてしまってしかるべきであると言うことができる。

 ご存知の通り現実はそうではないのだ。アナログ時計は今も生き残っており、生き残っているどころか普通に使われており、デジタルとどっちが多いかといえばむしろアナログが多い。これはまったく珍しい現象だと思われる。私の使っている腕時計など、内部的には完全にデジタル制御されている。時間をカウントするのは水晶振動子の振動で、それをときおり電波を受信して修正しているのだが、この過程に何一つアナログの部分はない。ところがそれをそのあとで、わざわざモータを回転させて針のかたちで私に読めるように変換して表示しているのである。こういうものは他にあまりない。読み取り方法としてはCDだが針を自分で載せたりターンテーブルを手で回せば音楽が逆戻りする、とか、あるいは、デジタルカメラなのだがメモリを化学的に処理するために専門店に現像に出し仕上がりをしばらく待たなければならない。そういうものがあったとしたらアナログ時計とはそういうものではないかと思えるが、もちろんそんなものはないのだ。

 長いことパソコンを使っていると明らかなことだが、装置はまず可動部から壊れる。パソコンで言うとフロッピーディスクドライブとかノート型のヒンジ部とかマウスとかキーボードがウィークポイントであり、これに対して動かない、モニタとかCPUとかメモリが壊れることは、まあめったにはない。ビデオ(アナログのテープ式ビデオ)なら、壊れるのはテープを出し入れしヘッドを押し当てる部分である。ハードディスクビデオでもHDD部分だ。電子レンジで壊れるのはマイクロ波を発生するところではなく、加熱を均一にするためのターンテーブルである。人間のプロ野球選手でも故障するのは監督やコーチではなく現場で動いている選手なのだ。

 なんか違う気がするが、この経験則に照らしあわせるなら、アナログ時計が壊れる所は針を回すところでなければならない。まともな技術者なら「可動部は取り除きましょう。ほら今は液晶というものがあるので、時刻はそこに数字で表示するようにすれば、ぐっとこう壊れにくくなります」と主張してしかるべきである。そういうところから考えるならば、アナログ時計などというものは、とっくになくなっていなければおかしい。可動部をなくしたデジタル時計こそ、仮に不運にも人類が滅んだ、その後も何万年にもわたり空虚に時間を数え続ける装置としてふさわしい時計である。

 しかしそうではないので、これはこの場合のアナログにデジタルよりよっぽどイイコトがある、ということに違いない。確かに、針式の時計のほうが便利だという意見は巷間よく言われるところである。いわく、アナログ式の時計のほうが、時間を角度として捉えやすいとか、遠くから一目見て時間を認識しやすい。時間経過をおおまかに知るためにはアナログのほうが便利だと、これは広く言われている。

 しかしそうだろうか。もともとのアナログ時計の時刻表示方式は、針を機械式の機構(へんな言葉だ)によって動かすしかなかった、その機構上の都合から生まれた、一種暫定的なものである。ほかにもっといい方法があったかもしれないが、こういうふうにしか作れなかったのでこうしている式のものである。短いほうの針が一日で二周し、長いほうの針が二四周する。さらに細い針が一四四〇周する。時刻の記述体系はこの機構の都合に迎合して「一日は二十四時間」「一時間は六〇分」「一分は六〇秒」と特別に決まっているわけだが、それにもかかわらず、時計から時刻を読み取るのは、義務教育においてわざわざ時間を作って教えねばならないものとして定められているほど難しい作業である。そういうのがほかにあるかどうか、たとえば「テレビのチャンネルの変え方」を学校で教えるかどうかを考えてみればよいと思うが、しかも現在、時計の読み方の単元は小学校二年生の算数にある。これは本当のことである。私も娘の教科書を見て愕然としたのだが、時計の読み方というものは「二桁同士の繰り上がりがある足し算」やあの「九九」などと同等の理解力を要するものであると、少なくとも文部科学省は定めているのだ。そうは言っても時計が読めないと不都合が多いのでみんな現実には幼稚園あたりで読めるようになってくるそうだが、一年生の教室にあるアナログの時計で、先生はどうやって児童に集団行動を教えているのか。謎は深い。

 とまれ、要するにアナログ時計の読み方というのは、確かに難しく、直感的ではない、妙なものなのだろう。思いつくまま挙げてゆくと、

・長い針と短い針があり、その意味するところはまったく異なる。さらにややこしいことに第三の針まである時計がふつうに存在する。
・一回転が「一二時間」「六〇分」「六〇秒」を同時に意味し、特に時針とそれ以外で同じ角度が意味するところがまるで異なる。「3」を指す針を時には一五分などと読まねばならない。そして分針秒針が「3」を指せばそれは「15」ということは、ふつう文字盤のどこにも書いてない。
・九時二七分一八秒という時間は、正確には読みとれないので、ぱっと見た目、これは「だいたい九時半」と認識するが、この「だいたい」という概念が他で算数に持ち込まれるのはかなりあとのことになる(円周率が計算に入る頃だ)。
・さまざまなデザインの時計がある。数字が書いてない時計もある。
・時計を見ただけでは今が午前か午後かわからないという明確な欠点がある。

 そのように考えてゆくと、このような難しい表示方式を、どうして我々が使い続けているのか、一考の価値があると言えるのではないだろうか。さっき書いたように、針式だと一瞥して時間がわかるとか、角度で時間が読み取れるなどということを言うが、実はそんなに明らかではない、ようにも思えてくる。4時代と5時代を見間違えることはありえるし、時針と分針を見間違えることも、わりあいよくあることである。回転や鏡映に対する冗長性も低くて、鏡に映った時計が何時なのかはわかりにくいし、天地がずれている時計を読むことは難しい。2時58分に来る電車を待っていて、今2時46分だった場合、「あと12分だな」というのを分針の角度で72度(あるいは円周の5分の1)だ、と直感的に把握している人があまりいるとは思えない。たいていは針から数字を読み取り、計算して、12分だなと考えるのであり、それなら数字で表示されていたほうがありがたいはずではないか。

 と、それなのに。以上の論考に隙があるようには思われないのに、どうしたことか確かに、私だって針の時計を使っているのである。よくわからないが、上で挙げたようなデジタルの優位性(故障しにくさ、読み取りの難しさ等々)は実はすべてささいな違いに過ぎず、デジタルとアナログの間に優劣がそんなに大きくないせいで、「アナログのほうがデザイン的に格好いい」という、これもその程度を測るのは難しいが、この差をくずせないのかもしれない。

 いや、そうではないはずだ。これだけ理由があるのである。すたれ方がゆっくりしているだけで、いずれ「わずかな理由」が慣性に打ち勝ち、アナログ時計は駆逐されるのかもしれない。そういうことを言っているからウィンドウズビスタは普及しなかったのだと思われるが、たとえば携帯電話。携帯電話についているのはだいたいがデジタル時計だ。携帯電話がこれだけ普及した今、腕時計をしないで外に出る人は多くて、それだけアナログ時計の普及率が落ちていっている……と考えられなくはない。私たちの孫の代になると、もう針時計なんて誰も使ってないかもしれない。その時、我々ははじめて、

 世の中には二種類のAがある。アナログとデジタルである。

 と書く必要はなくなるのである。ああよかった。


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