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 少し前、保険の見直しを行った。

 と、見れば広告くさい書き出しである。広告臭いし、しかも、おっさんくさい。定期的に保険を見直す、そんな大人になりたかったん?大西君? という幼なじみの女の子の声が私のうつろな心の中にこだましようというものだが、必死に言い訳をすれば人生においてはやりたくないことでもせざるをえない場合があるのであって、それは「住宅ローンを組む」とか「還付金の申請を行う」とか「保険の更新を行う」というようなあれだ。大人なので、父親なので、おっさんなので保険くらいは見直しをせねばならぬ。だいたいくだんの幼なじみの女の子だって、今ごろは子供を塾に送り迎えとかしているはずだ。

 いや、そんな寂しいことを言っている場合ではなかった。ここで言う保険というのは生命保険のことだが、保険の見直しというのはおっさんくさいばかりではなく、とても辛気臭い作業である。そもそも保険とはそういうものだが、見直しを行っていると私が病気になったらとか怪我をしたらとかお子さんが他人の家に自転車で突っ込んだらとか、そういう景気の悪い話ばかりであり、あげくの果てに万が一の時にはとかそういうことも言われるので意気が上がらないことおびただしい。万が一のときに出るお金なぞ、知るもんか勝手にやってくれと投げ出してしまいたくなるではないか私がもらえるわけではなし。等々、この調子で楽しいことなんて何一つないのだが、それでもときどき、ふっと持っている知識を生かせる場面が、ないことはない。

 たとえば「日帰り入院でも2万円出ます」という特約である。日帰り入院というのは入院と言うのかどうか、普通の通院とどう違うのかという根本的な疑問もあるが、それで2万円もらえるというのはうまい話ではないだろうか。ふむふむ、ははあ日帰り2万円。これでトンカツ定食が何回食べられるかなと読んでいて、ふと思ったのだ。いや、ここはよく考えてみるべきだ。というより、ここで考えないでトンカツトンカツ言っていて、なにが科学かそんなペンネームは捨ててしまえと思ったのだ。

 思ったのはこういうことだ。この特約がなければ、保険料はどれだけ安くなるのか。

 今回あらためて知ったのだが、生命保険の保険料というのは非常にシビアにできている。保険金の多寡や付帯する細かい条件を一つひとつ、入れたり取ったりすることができ、しかも、その都度きちんと保険料が計算しなおされて、差額がどうであるか、検討できるしくみになっているのだ。いろんな保障に全部確率が計算されていて正直に制度が作ってあるということだと思うが、上の日帰り入院特約も「いるひともいらないひとも、どなたさまにもサービスで入ってます一律そうです」などといういいかげんなことにはなっていない。牛丼屋のベニショウガみたいにご自由にお取りください、などということはなく、おしぼりひとつ、割りばし一膳からちゃんと値段が設定されている感じのものである。日帰り入院特約の有無で見積もりを取ってみると、これで年間五千円くらい保険料の差ができるらしい。

 さあどうか。単純計算をして、四年に一回よりも頻繁に日帰り入院をするのであれば、この特約は自分にとって得だということになる。日帰り入院特約というのは本当に日帰り入院に対しての特約であって、これの有無によって差が出るのは日帰りから三泊までの入院をした場合だけである(一週間くらいの入院に対しては別の条項でカバーされる)。保険というものは、得かどうかではなくてそれで安心できるかどうかを基準に判断すべきものだとは思うが、病気がちでもない普通の人にとっては、これはやはり、ちょっと高い、ということになるのではないか。たとえば年に五千円ずつ、保険金を支払う代わりに貯金する。日帰り入院してしまえばそれを下ろして使うとして、そのときに二万円以上貯まっていればいいわけである。四年に一回の割合で日帰り入院しなければ「保険金」は貯金のほうが得になるし、しかも、保険と貯金の違いとして、貯金は日帰り入院しなくても使える。

 これは一般法則である。保険というものは、ある将来起こり得る事態の衝撃に対して自分の生活が耐えられない場合だけ意味を持つもので、そうでない事態に対しては保険をかけるべきではない。自分の生活を壊してしまうような突発的でとりかえしのつかない事件に備える手段として保険を使うのは理にかなっている。しかしそうではないなら、たとえばちょっと痛いがなんとかなる程度の出費に対しては、保険はあまり役には立たない。保険の「期待値」というものを考えた場合、保険が保障するのがいかにも起こりそうな事態だとしても、その確率と保険金の積は保険料より大きくはならないのだが、これは外交員さんはじめ、私の支払った保険料でご飯を食べている人がいることから、当然のことであると言える。言い換えれば、保険は平均してモトが取れるようにできてはいない。自分の財布から出してなんとかなりそうな、上の日帰り入院特約のようなものは、年四回のトンカツを自分が食べるかかれらに食べさせるか、という程度の問題でしかないのだ。

 さて、すっかり話が油っぽくなったところで、実は以上は前置きである。

 あなたが会社勤めをしているとして、あるとき突如部長に呼ばれたとする。理由はよくわからない。会社でなければ、先生でも担当教官でも町内会長でも姑でもよいが、とにかく来いといわれた。呼ばれたからには行くのだが、いったいどっちなのか。怒られるのか褒められるのか。いいことで呼ばれたのか、悪いことで呼ばれたのかちょっと心当たりがないとして、どちらを想定するべきか。

 一つは楽観的な考え方。わざわざ呼ばれるのだ、そりゃ褒められるのだろうと考える。やったぜ俺、昇進?昇進だよね?と思いながら部長のところに行く。そう考えて行って実は「仕事中に雑文書いてるんじゃない」等と叱られた場合、その落差は生ビール一杯ではどうにもならないショックになると考えられるが、その一方で、実際に部長のところに行くまでは、けっこう楽しい気分でいられる。
 もう一つは悲観的な考え方である。たぶんこちらを選ぶ人がどちらかといえば多いのではないかと思われるが、こういう場合、なんだかわからないがどうせ叱られるのだろう、と考える。そうやって心の準備をしておけば、実際に叱られた場合にその衝撃はいくらか少なくて済むはずだ。ただ、来いと言われたその時までは陰々滅々とした気分でもんもんと過ごすことになる。部長のところに行く前の晩のビールはあんまりおいしくないだろう。

 こう考えると、つまりこのことは一種保険に似ているのではないかという、つまりそれが言いたかったのである。今日の気分がちょっと悪くなることで、明日のショックがもしかしたら弱まるかもしれない。保険なしで面談に突っ込んでいったら手ひどいショックを受けるかもしれないが、あらかじめ転んで泥だらけになっておけばある程度大丈夫だろうというものだ。考えてみればポジティブシンキングしたほうが毎日楽しいのに、実際にはあまりみんなそうしない理由は、悲観的な考え方にこのような効用があるからではないかと思われる。

 上の保険の考え方を援用するのであれば、何がなんでも悲観的に考えるというのは、あまりよくない態度であると言える。いちおう、呼ばれた理由が悪い話としてそれが最悪どれくらい悪い話なのかというのは、ある程度予想がつく。たとえば、自分を呼んだのは部長であって秘密警察ではないので、まあ命を取られたり強制労働に就かされることはないだろう、ということである。そうであるなら、つまり「もしも叱られたら自分が耐えられなような場合だけ悲観的に考え、そうでなければ楽観的に考えておく」というのは、理にかなった戦略であるように思われる。

 とはいえ、私がいやな気分で過ごすことでご飯がおいしく食べられるというひとがよそにいるわけではない以上、保険とはちょっと話がちがう、という考えはもっともである。だからといってどうすればいいのか結論は出ない。考えうる事態の、その深刻度のどこかに「楽観的に考えておいたほうがおトクなボーダーライン」があるのだろうとは思うのだが。


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