書こう書こうと思っているうちに、すでにかなり時期を逸した感じがして、更新速度の低下について悲哀を感じる今日この頃だが「百年に一度の不況」という言葉がある。わあ今ごろ、とみんな思うだろうが私も思う。しかし、流行語というものは浸透し拡散してゆく。新聞で使われなくなり、テレビのコメンテータの口にのぼらなくなっても、より末端の、そして身近な場面では依然として使われてゆくに違いないのだ。今後次第に「散髪屋のおやじさんが『百年に一度の不況でっさかいなあ』と言う」「中学生が学級新聞に社説として書く」「幼稚園児が百年に一度の不況ごっこをする」「雑文書きがネタとして取り上げる」というふうに劣化しつつ広まってゆくであろう。
しかし百年に一度だ。この言葉、耳になじんで使いやすいので、いかんいかんと思いながらもつい使ってしまう、その気持ちはよくわかる。使う本人が「いやなんぼなんでも百年に一度は大げさやろ」とか「そない言うたって終戦直後よりはマシとちゃうんかなあ」等と思っていても、なあに大丈夫だ。「百年に一度の経済危機と言われているが」と書けばまったく問題なしのオールオッケーであって、別に自分が言っているわけではないので間違っているかどうかは関知するところではない。よく思うのだが、こういう言葉を宣言するにあたって重要なのはグループの中で最大の予測値を出すことで、これはたとえば「地球に隕石が墜ちてくる確率は」というのを文章に書きたいとして、どういう値を引っ張ってくるかを考えてみるといいと思う。いろいろな専門家なり政府機関なりNGOなりが出している値の中でもっとも悲観的でもっとも劇的な値を引用して「一説によれば〜という予測もある」等と書きたくなるに決まっているではないか。私だってそうする。みんなそうする。
さてここで考える必要があるのは「百年に一度」とはいったいどういうことかである。いや、これが語呂のためであり実際には本当に百年に一回くらいの頻度でやってくる経済危機を今味わってるものかどうか、べつだん厳密に検証されていないというのは、この際どうでもよい。むしろ百年云々はだいたいの感じを言ってみたもので、ありていに言えば「嘘ついたら百億万円払え」の類だと思われるが、では厳密に言ってこのくらいの不況が、たとえば「32年に一度」の頻度で起きているということがわかった場合、それは何を意味するのか、ということを言いたいのだ。
まず世の中には「厳密に百年に一度回ってくる」というものがある。つい先日あった気がして、しかし実はもう一〇年近く前なのですっかり参ってしまうが、「世紀の変わり目」なんかがこれだ。オリンピックは四年に一度だと言ったら確かに四年に一度回ってくる。これが「だいたい四年に一度」であって実際には三年に一回だったり五年に一回だったりしたらさぞやたいへんだと思うが、不況なり経済危機に関して百年に一度と言った場合にこの意味で使われていないことは明らかである。今の状況が1909年にそっくりだなどと、誰もそんなことを言いたいわけではない。
もう少し弱い意味の「百年に一度」には、たとえば「バスが一〇分に一本の割合でやってくる」というものがある。バスなので確実にその時間に来るわけではないが、平均して、一時間見ていると六本くらいのバスがやってくるというのはそこそこ信用できる。ときどき二台連続することもあるし三〇分くらいやって来ないこともざらではあるが、八台連続してやってきたり三時間ものあいだ一台もやって来ないということはありえない。前のバスをもう少しのところで逃した人が、次のバスがいつ来るだろうということを考えた場合、
と、ものすごくフリーハンドだが、こういう感じの想像をしているはずである。つまり、次のバスは一〇分後に来る確率がもっとも高くて、その両側に向かって確率がゆるやかに下ってゆく。一〇分のところの山がどれだけ鋭いピークになるかが、バスに対する信頼性ということになるだろう。これがバスでなく電車なら、山はかなり急峻になるはずだ。
通常「地震」というものについて我々が抱いているイメージも、こんな感じではないだろうか。地震がなぜ起こるのかというと、ものすごく一般的なことを言えば、そりゃ太平洋なんたらいうプレート同士がぶつかって、片方が曲がる。堅い岩盤なので曲がりっぱなしというわけにはいかず、あるとき限界を迎えて界面が急激にずどんと滑る。そのときにぶるぶる地面が震えるがこれが地震である、とそういうものではないかと思う。つまり「チャージと解放」であり、風船が膨らんでパンと割れるのと大差ないイメージである。蓄積のないところに解放はないため、一つの地震から次の地震までには岩盤の堅さやプレートの速さや摩擦力といったものの兼ね合いとして、典型的な間隔があるはずである。このことをグラフにすると、やっぱりこんな感じだろう。
またもやフリーハンドな上に使い回しだが、ある場所で起きる地震は、多少ずれることはあってもだいたい周期的にやってくる、と考えてそんなに間違いではない気がする。上のグラフにおける「70年」という数字に特に意味はないが、前が来たばかりだから大丈夫、そろそろ危ない、いつあっても不思議ではない、というふうに考えるわけである。
しかしそうでもないらしい。地震はたった一つの断層なりプレートの境界面で起きるのではない、というのが理由の一つかもしれないが、目立つもの、仮説に合うものだけを見るのではなく、観測された多数の地震を虚心に時系列順に並べて整理してみると、大きい地震が定期的に起きている様子はない、らしい。むしろ一つの地震と次の地震の間隔は、次の「指数分布」というかたちの確率分布をしている。
はっきり言えるのは「地震の後はやや地震が起こりやすい」程度のことであるが、分布が長期にわたる場合、このフリーハンドのグラフでそう見えるほどたいした傾向にはならない。世界のどこかで飛行機が墜落してから次に落ちるまでの時間とか、クラスの誰かの誕生日が来てから次に誰かの誕生日が来るまでの日数といった、互いに関係ない偶発的な出来事同士の間隔が、一般にこの確率分布をなす。地震というものが、普通に考えられるように、風船が膨らんでいってあるとき割れる、割れた後は新しい風船が膨らみ始める、というようなイメージに似たものではなく、むしろ大異変を起こすだけのエネルギーはいつでもどこかでたまっていて、それがたまたま一気に解放されるかどうかである、というような想像をするほうが真実に近いのだと思う。
さて風船といえばバブルだが、とうまいこと元の話に戻したところで、「百年に一度の不況」である。不況はどうなのか。膨らんだ風船に近いのか、いつでも株価が急落する要素はあってそれがたまたま大異変になるのかどうか。これは、状況を見れば、どちらかといえば後者に近いのではないかと思う。好況不況の波に周期性などないはずで、あればそれを使って一儲けできるはずである(そしてそれを利用してみんなが一儲けを企む結果、好況不況の波は均されてしまうはずである)ということを考えると、原理からして経済危機は予測不可能でなければならない。
つまり経済危機に関して「百年に一度」といった場合、それは周期的におおむね百年に一度やってくるバスよりは、平均したら確かに百年に一度来るものの互いに無関係な地震に似ていると想像される。そうではないだろうか。あるとき、なんでもない売買が行われる。普段そうであるように、普通に行われたその取引が、たまたま次の商いを引き起こす。この売買が次々に波及してゆき、それを見た他のプレイヤーが自分の行動を変え、それが積み重なって市場の意識が変化する。悲観的な見方が広がり、売りが売りを呼ぶようになって、客観的な見方をしていた数多くの人までも巻き込んで投げ売りが行われ、株式市場の大暴落をまねく。最初のきっかけはなんでもないもので、それはいつ起っても不思議がないものだった。後付けでは物語が作られ、理由が語られみなが納得するが、それは再現性のあるものではないし、まして法則に昇華しうるものではない。不況は互いに無関係に、典型的な間隔というものはなく、あるとき突然起きるのである。
というのは「あれってつまりこういうものじゃないですか、ねえ?」程度のいいかげんな話に過ぎないが、仮にそういうものだとして、こうした指数分布における二つのイベントの間隔はどうなるか。百年に一度という言葉を今は信じるとして、平均間隔が百年になる指数分布において、次のイベントがN年以内にやってくる確率は、
r=1-exp(-N/100)
と、こうなる。これを使って計算すると、
・百年以内に次がやってくる確率は63%
ということになって「百年以内にやってくる確率」が三つに二つしかないことは少し意外な感じがするが、これは確率分布が長期間側にも長い尾を引くためである。短い方を見てみると、
・五〇年以内に次がやってくる確率は39%
・二〇年以内に次がやってくる確率は18%
・一〇年以内に次がやってくる確率は9.5%
こうなる。私がこのあと二〇年働くとすると、その間に次の「百年に一度の不況」がやってくる確率は二割近くあるわけだ。これは「膨らむ風船」のモデルで考えていると不思議な結論かもしれない。二割が多いか少ないかはわからないが、もしもそうなったら、つまり二十年後に今と同じような経済状況を迎えたとしたらどうなるか。そのときに人々はこれを正しく「百年に一度」と評価するだろうか。それとも「二十年に一度の不況」と呼ぶだろうか。どちらにしても奇妙な味わいの言葉であると、言うことはできるのではないだろうか。