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 星、というのはこの場合太陽などの恒星のことだが、星と星の間の距離はおおむね「光年」あるいは「パーセク」という単位を使って表される。このうち有名なのはやはり光年だが、プロの使う単位はどちらかといえばパーセクらしく、その理由は「1光年」よりも「1パーセク」のほうが長いので、同じ距離を表すための数字が小さくなって便利だからだ、と聞いたことがある(確かアシモフから)。

 とはいっても、これが本当かどうかはよくわからない。まず、1光年はざっと10兆キロメートル、1パーセクは約30兆キロメートルなので、どうせおおよそ三倍しか変わらない。数字は確かに小さくなるが三分の一になるだけである。どうも「地球の大きさから決めたメートルよりもこの手の届く距離であるフィートのほうが人間の感覚によく合っている」とか「高速道路を無料にすると一般道の渋滞が減るから二酸化炭素削減になる」などと同様の、なんというかヘリクツい感じが漂ってくるのだが、まあそれはよい。問題は、このどちらもが「SI単位ではない」ということである。

 SI単位とは何か。Systeme International(フランス語で、systemeの一つ目のeには上にアクサンがつく)。これまで分野によっていい加減で場当たり的に定められて使われてきた単位を、合理的で曖昧さがなく世界的に通じる単位でもって置き換えてゆこうという、その単位の系統のことである。たとえば長さはメートル、重さはキログラム、時間は秒というふうに標準を定めて、あとは標準単位を組み立てていって、できた単位ですべての測定を行う。フィートやら寸やら匁やらバレルやら馬力やら、そういうのを全部この単位系で置き換えようというものである。そんなこと言ったって我々の業界ではダイヤモンドの重さを表すのにカラットを使ってきたので、これがミリグラムだと宝石が売れなくて困るじゃないですか、などと言う人もいるかもしれないが、原則的にはこういうのは許さないことにする。おんなじマスで測っておんなじ単位で科学も商売もやりましょう、という国際的な約束である。

 これに沿って考えれば、光年もパーセクもSI単位ではない。1パーセクというのは、地球から見た見える方向が、半年で角度で一秒(時間ではなくて、直角が90度であるところの角度の「1度」の、60分の一のそのまた60分の一)異なる距離である。そんなん知らんがな、と普通は思うところだし、SI単位系とはあんまり関係ない。理屈に従えば、天文学の世界でもパーセクなんぞは使っては駄目で、テラメートル等と言わねばならないのだ。ただ、光年のほうはちょっと微妙で、というのは現在メートルというのは真空中の光の速さを使って定義されているからで、時間×光の速さで距離を表すのはテラメートル等よりもより基礎的な定義方法だと考えられなくはない(「年」のほうが微妙な時間だけれども)。本当に天文学のプロは今どうなのか、いきなりよそからやってきてメートルを使え、という指令が我慢できなかったからといって、光年やらパーセクやらを使っていいということにはならないのではないかなあとは思うのだが、実情についてはよく知らない。

 などと、この手の「SI単位系」への移行は、遠いところでやっているぶんにはどちらでもいい話なのだが、自分の身に降りかかるとびっくりすることがあって、実際にそうなっている。たとえば天気予報で使われる気圧の単位が「ミリバール」から「ヘクトパスカル」に切り替わったことが、私にはけっこう驚きで、記憶に新しい。などと言うと年齢がバレるので周囲の人々にぜひ試してみてほしいが、そのヘクトパスカルたらいう見慣れない単位が、すっかり定着したのは驚くべきことである。SI単位は科学の世界で勝手に使っていればよいのであり、宝石はやはりカラット、プラネタリウムでは光年で説明しているし、NHKの天気予報ではミリバールに翻訳して言う、それでいいではないかと思うのだが、そうではないのだ。日本人はそのへんまじめなのでちゃんとやっているのだと思う。

 いや、ヘクトパスカルはまだよいのだ。ミリバールとヘクトパスカルは要するに同じ圧力を表すのに別の方法を使っただけの、同じ単位である。言葉だけの問題だと言ってもいい。問題はもう一つ、それまでトール(トル)を使っていた真空度のほうも、このパスカルを使うようになったことだ。

 いや、真空度って何だ。それは食べたらおいしいのかホームセンターで売ってるものか、と訊ねられるのは当然のことだが、これは、真空容器の中がどれくらい本当の真空に近いか、その度合いを表す言葉である。よく知られているように大気はだいたい1000ヘクトパスカルである。密封した容器に真空ポンプをつないでゴンゴンと中の空気を抜いてゆくと、中の圧力が減っていってたちまちゼロヘクトパスカルに近い値を示す。しかしこれは「だいたいゼロ」なのであって「本当にゼロ」ではない。普通、どんないいポンプを使っても少しはガスの分子が容器の中に残ってしまうので、その残っている度合いを圧力で示した値を、真空度として使う。いいポンプとよい容器を使えば、大気圧から15ケタくらい小さい圧力を実現することができる。

 ここで少し不思議なことがある。真空度は習慣として、10のマイナス6乗パスカル、マイナス9乗パスカル、と乗数をつけて呼ぶことが多い。何が不思議なのかというと、SI単位の常識としては、こういう場合は「マイクロパスカル」とか「ナノパスカル」と接頭辞をつけて言うことになっているからだ。都市間の距離はキロメートルを使うのであって「東京から10の5乗メートル」などとは言わない。半導体の設計が「4.5かける10のマイナス8乗メートル」と書かないでちゃんと45ナノメートルと書く。ところが真空度はマイナス12乗パスカルであって、ピコパスカルとは言わないのだ。もう一つ言えば、圧力が高いほうはちゃんとSI単位系の法則にのっとって使っているらしく、ヘクトパスカルはともかくとしても、たとえば材料力学方面では「メガパスカル」だとか「ギガパスカル」という単位がけっこう普通に使われているようなのだ。妙な話である。

 私は思うのだが、いや、特に調べた訳ではなく単に思っているのだが、これは真空度の単位としてパスカル以前、長らくトールを使っていたためではないか。実は真空度の現場こそ私が学生から社会人になったまさにその頃にSI単位系の洗礼を受けた分野であり、学生の頃は真空度と言えばトールであり、パスカルなぞ聞いたこともなかったし、教科書も辞典もみんなトールで書いてあった。そして、このトールこそは、やはりマイナス6乗だとかマイナス7乗で表すものであってミリトールやらマイクロトールなどというものはなかったのだ。こういう場合の習慣というのは強固なもので、真空度のトールはもしかしたらSI単位系の例外として残ってゆくのではないかと私などが思っているうちに、大学院生になり、歳を経るにつれて徐々に「パスカルでも表示できます」という真空計が市場に増えてきて、何言ってるんだパスカルなんかで表示すんなよえい、と設定をトールに切り替えて使っていて、そのあと社会人になって気がついてみると、真空の単位はすっかりパスカルであって誰もトールなんて使ってはいなかった。世界は変わるときには変わるものだと私が思ったのはこのときである。生まれて初めて「おじさんの若いときにはね」と言いたくなったのは実はこの瞬間ではないかと思うが、要するに今はみんなパスカルなのに昔はみんなトールを使っていたのである。そしてこれがあったから、この流れでもって、真空度を表すときのパスカルは今なおマイナス8乗でありマイナス9乗であってナノなんて使わないのかもしれないと、こう言いたいわけである。

 いやちょっと待った、と思わねばならない。それはよくわかった。トールがマイナス6乗トールだからパスカルもマイナス4乗パスカルなのだと、それはいいとしよう。ではなぜマイクロトールではなかったか。そこだ。そこに理由があるはずじゃないのか。ごまかすんじゃない大西。

 いや、もちろんそうなのだ。トールについてマイナス何乗という言い方をしていた理由はいろいろある。もともと有効数字が少なく同時に十数桁という大きな範囲内の数字が出てくる量であること、それからトールはSI単位ではないから、ミリもマイクロもないのだ、と言うことが理由としてあげられるが、もっともそうな話をもう一つあげられるかもしれない。というのは、トールは実は「mmHg」と同じ単位なのである。つまり、上部を真空にした水銀柱を作って、それを1ミリメートル押し上げる圧力が1mmHgであり、これを別のいい方で1トールと呼ぶ。トールとはそういうものなのだ。

 測定に水銀たらいう生臭い物質が入っているので、トールとパスカルの間にはミリバール/ヘクトパスカルのような互換性はなく、「1トール=133と少しパスカル」などという、見ている人の髪が思わず真っ白になるような関係があるのだが、ここでの問題は水銀柱の高さの測定単位が「ミリメートル」だというところだ。水銀を1ミリメートル押し上げる圧力を1トールとして、では水銀を0.1ミリメートル押し上げる圧力は何か。0.1トールである。しかしこれを100ミリトルと呼んでいいものか。いやそれはおかしい。おかしいと思うのだ。このときの水銀柱の高さは100マイクロメートルであり、100μHgとも書ける(ミクロンエイチジーと読む)からである。これを100mTorr(ミリトール)だというのは、マイクロなのかミリなのか、ミリミリでいかにもヘンテコであり、ややこしくて白髪が増える。だからトールにミリやらマイクロをつけるのはやめて、0.1トールは100ミリトールではなく1かける10のマイナス1乗トールと呼ばれるようになったのである。そして、長年そうやっているうちに「ははあん真空度はミリやらマイクロは使っては駄目でマイナス何乗と書かねば格好悪いのだな」とみんなが認識した結果、今でもマイクロパスカルやらピコパスカルたらいう単位は一顧だにされず、単にマイナス10乗パスカル等々と呼ばれてしまっているのである。

 と、証拠もない上に調べもせずに実にいいかげんなことを書いたが、本当のところ、このくらい圧力が小さくなると「圧力」でものを考えること自体、あまり意味のあることではない。もともと「1パスカル」というのは、1平方メートルの面に1ニュートンの力が加わった圧力のことで、大気圧が約1,000ヘクトパスカルというのは100,000パスカルということである。1メートル四方に100,000ニュートン(約10,000キログラム重)の力が働いていることになる。10トン、牛20頭分であって、なるほど「空気の持つ圧力」として感じられるが、一方、ここからたとえば15桁低い圧力(10のマイナス10乗パスカル)ということは、同じ1メートル四方にかかる力は10ナノグラム重ということなのだ。1平方メートルあたり10ナノグラム重を「圧力」として測定できる計測器なぞないので、測定しているのは中の気体が押してくる力というよりもどちらかといえば「残っている分子の数」である。もしかしたらこの理由もあって、マイクロパスカルやナノパスカルと呼ぶことがほとんどないのかもしれないと思ったりもする。真空度を測るいわゆる真空計は、厳密には圧力を測定しているのではない(場合が多い)からだ。

 星と星の間、恒星間の宇宙空間にはだいたい1立方メートルあたり分子1個か2個くらいあるそうである。これが真空度で言うと何パスカルに当たるかというと「その分子の速さ」を計算に入れないことにはよくわからない、というふうに書いてこの場は逃げることにしたいが、距離の極限と真空の極限、その両方でSI単位系があまり使われない分野があって、それが星と星の間にともに横たわっているというのはちょっと面白いことのような気がする。つまりこういうことなのだろう。我々の想像を絶して遥かなる存在、それが、星。


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