「ねえお父さん、サンタクロースって本当にいるの?」
と娘に訊ねられて、どう答えたらいいかよりも先に、まず私が考えたのは「初めてその質問をする年齢として『小学二年生』というのはどうなのよ」ということだった。クリスマスイブの夜に子供にプレゼントをくれる存在としてのサンタクロース、そのファンタジーを実在のものとして信じる年齢として、小学二年生、七歳というのは、いかがなものなのか。
いやそれ以前の問題として、そもそも私は、どちらかといえばそういう虚飾を否定する側の人間ではなかったか。ミッキーマウスは世界で一人だけだとか、夜に爪を切ると親の死に目にあえないとか、卒業式の日に校庭の木の下で女の子から告白して生まれたカップルは永遠に幸せになれるとか、そういうのを全部「それはまあ端的に言えば嘘だ」と断じる人であり、ドーキンスの「悪魔に仕える牧師」を読んで、そうだそうだよなあいいこと言うなあ、と思うような人間なのである。もしも私が一人で子育てをしているのだとしたら、クリスマスにプレゼントなんてそもそも買わなかったはずだ。まして、子供が寝ている間にそれを枕元に置き、「サンタさんが置いていったんだよ」などということは、絶対にやらなかったはずである。
しかるに、今のところ三人いるところの私の子供たち。先日真ん中の子が誕生日を迎えて幸せな七五三から七六三歳の並びになっているこの三人に関して言えば、みんながみんなサンタクロースをころりんと信じているのだった。確か、去年も一昨年もそんなにしっかりと「サンタ役」をやった覚えがないのに、いつの間にかそういうことになってしまっているのである。これは恐ろしいことだ。もしも「えーと、あなたのペンネームって確か大西『科学』というんじゃありませんでしたっけ?」と訊ねられたとしたら、どういいわけをしたらいいものか。訴状を読んでいないのでコメントできないとか、裁判の中で明らかにしてゆきたいと思っているとか、そうとでも言うしかないではないか。
いや、そんなことはない。ここはひとつ開き直る手はある。
「あのな、正直に言うと、サンタさんなどという人はいない」
といえばいいのだ。簡単である。
「なあんだ、そっか」
「そうなんだ。プレゼントは実はもう買ってあって、二階のクローゼットに隠してあるんだよ」
「へえ、今もらっていい?」
「いやいや、クリスマスまで我慢しなさい」
と、想像してみれば別に大したことではないのである。人がファンタジーを信じていたとして、それを裏切られる状況としてもっとひどいシチュエーションはいくらでもある。たとえば小学校の、ちょっと気になる格好いい男の子の友達に、
「なんだおまえ、もしかしてサンタ信じてたの?」
と言われるとかそういうことだが、それを避けるためには早めはやめの対応が望ましい。
ところがそうはいかないのだ。いかないのだが、なぜかというとこれは基本的に覆水盆に返らずの類の事柄であって、そして私は自分一人の力で子育てをしているわけではないからである。たとえば妻。たとえば祖父母をはじめとする親類筋。たとえば幼稚園(悪いことにキリスト教系の幼稚園だ)。あるいは地域社会。具体的にはお友達やママ友達との関係。そういうものの存在なしに、単に私と娘の関係としてのみこのサンタクロース問題はあるのではない。娘の希望を私が勝手に破壊することは簡単だが、そうしてしまったらこれは二度とはもとには戻らないのである。壊すとしてもよくよく考えて、すべての関係者の利益を調整した上ででないと、気安く前に進めるものではない。そうしたものを勘案し、調整して十分な議論をした上で最後は私が決めたいという、そういうことで国民にはご理解いただけると思っている。
というのは昨今では「決めないということを決める」ということの婉曲表現であったりするが、その通り私はこの期に及んで日和見を決めた。娘に対して、このように説明を始めたのである。
「いるよ。サンタクロースはいる」
「本当に? お父さん会ったことある?」
間髪入れず、実に疑わしそうに聞いてくる娘。真剣である。ちょっと考えて、私は正直に言った。
「ない」
「じゃあ、わからないじゃん」
と娘は疑うのだった。疑うのだが、考えてみればこれは、ああ、実に頼もしい懐疑主義ではないか。自分の娘だったら抱きしめているところだが、いや違った。自分の娘なのでここで抱きしめてもいいわけだが、だからさっきの段落で書いたようにそうは行かないのだ。私は幹事長、じゃなくてうちの妻が怖いので、結局、こういうふうに言うことにした。
「なあ娘さん」
「会ってない、っていうのはいないことじゃないの?」
「娘さん。まあ聞きなさいってば」
私は、なお言いつのる娘を手で制して、
「伊吹吾郎っているだろう?」
と訊いた。
「……うん」
娘は変な顔をして、うなずく。伊吹吾郎というのは、おそらく娘が初めて覚えた俳優さんの名前である。「侍戦隊シンケンジャー」という、これも小学二年生の女の子が見る番組としてどうかと思うが、そういう名前の特撮戦隊もののテレビ番組が日曜の朝に現在絶賛放映中であり、その中で伊吹吾郎は殿(シンケンレッド)を支えそして導く「ジイ」の役で出ている。
「ほかに『すイエんサー』にも出てるよな。新三共胃腸薬のコマーシャルにも出てる」
「うん、出てるでてる」
あまり説明する意味はないが、すイエんサーはNHKの番組で、日常の不思議を科学で解き明かす、みたいなあれだ。火曜日の夜にAKB48と出ている。ちなみにこの中で放映している「マリー&ガリー」というアニメのガリレオの声の人はシンケンジャーで敵幹部の声をあてているチョーさんだが、これもあまり説明する意味はない。話がますますややこしくなるばかりだからだ。
私はチョーさんチョの字を飲み込んで、こう訊く。
「伊吹吾郎はいると思うか?」
「そりゃいるよ。見るもん」
むくれて娘は言う。付き合いが長いので私にはわかるのだが、娘のこの顔は「なんだかわからないが、この人は今私のことをごまかそうとしている」と思っている顔である。
「そうだな。でも本当にいるのかな?」
「いるよ。いぶきごろうはいる」
力強く言う娘。
「ああ」
と私はそんな娘にやさしく言った。
「でも、会ったことはないだろ。お父さんだってない。昔からいろんなテレビに出てるから、いないってことはないと思うけど、本当かどうかはわからない。だって、会ったことないんだから」
「……そうなの?」
「ああ。だから、もしかしたらいないかもしれない。アン・シャーリーだとかめちゃモテ委員長はいないよな」
「うん……あれは、お話だから」
「そうそう。見たことはあるけど会ったことはないもんな。伊吹吾郎だって、それと同じかもしれないぞ」
「えー」
と首をひねる娘。しばらく考えてから、目を上げた娘は言った。
「いるよね、いぶきごろう」
「いるよ」
「うん」
娘と私は同意する。そして、私はこう言った。
「だから、それと同じ意味で、サンタクロースもいるんだ」
「……」
ハンシンハンギであります、と娘は目で訴える。
「伊吹吾郎はいる。だからサンタクロースもいるさ」
「そうかなあ」
「そうだよ」
「そうか」
と、半分わかったような、ぜんぜん分かってないような、そういう顔をして、娘は引き下がっていった。
「いるのか」
と向こうのほうで一人で言っていたりしている。
しかしどうなのか。伊吹吾郎は、確かにいると思う。しかし、かれが本当のところどんな人であるのか、かれが自分で何を考え、どのようなものを食べ、どのように日々を送っているか、そのすべてを我々が知っているわけではない。その点において、俳優伊吹吾郎は、かれが演じるところのシンケンジャーのジイと同じく、実在であり非実在であると言えなくはない。第一、娘はともかくとしてシンケンジャーを真っ正面から受け止めて見守っている三歳の息子にとっては、ジイは完全に実在の存在であるはずだ。それはもう、伊吹吾郎氏本人よりも、ずっとずっと。
私はそのとき、確信できた気がした。伊吹吾郎はどうかわからないが、シンケンジャーのジイは存在していて、そしてそれと同じ意味において、サンタクロースも存在するということを。そして、とにもかくにもそういうことでゆくことにしたので、ここからしばらく、私は安心して「サンタクロースはいるよ?」と子供たちに言うことができるであろうことを。半分、笑いながらではあるだろうけれども。
そう、こんな私にも年末はやってくる。メリークリスマス。そしてよいお年を。